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ねとうよに變身
あなたがねとうよに變身した理由、しなかった理由をおしえてください。
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- Ganymede
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(1) 「理性」は、先人が苦心して西欧語に漢語をあてて訳した言葉だろう。しかし、理性の「性」の字に注意を払わず、もっぱら「理論」などを連想する方もいらっしゃるようだ。 「理性」と訳したのは、「人間には本来『理』の性質がある」という思想を、訳者が会得していたからだろう。「性」には「生まれつきの性質、本来の性質」という意味がある。 18世紀ごろヨーロッパで啓蒙思想が盛んになり、「人間には生来『道理によって物事を判断する心の働き』が備わっている。それは、古い因習や長年の権威より、さらに古くから人間に備わっていた」と説いた。彼ら啓蒙思想家の中には無神論者もいたとしても、だいたいはキリスト教徒だった。とは言え、当時は教会の権威が強すぎたので、それに対抗するため彼らは上手い論法を編み出した。「理性は、人類が神から与えられた掛け替えのない性質であるから、その活用に努めることは、神の思し召しにかなうことである」というような論法だった。 (啓蒙思想家じゃないけど)科学者のニュートンなども好例だろう。彼の偉大な業績の一つは古典力学の体系の確立だが、意外なことに信心深い男でもあった。ニュートンの信念は、「神の造りたもうた森羅万象には、神の理法(道理にかなった法則)が貫かれている」ということだそうだ。目の前のリンゴの落下から、はるかかなたの月星の運行にいたるまで、千変万化の現象を統一的に支配する、見事に整った法則がある。それを明らかにすることは、単なる物理法則の証明にとどまらず、神の御栄えが揺るぎないことの証明でもある、という考え方だった。 (2) ネトウヨに関するご質問であるから、右寄りの人たちについて述べると、連中は「女性は女性らしく、日本人は日本人らしく」などと言いたがる。ここでも国民性などの「性」が関係している。 しかし、私たちはセックスとジェンダーの違いを知らなければならないだろう。ジェンダーとは「社会的、文化的に形成される男女の差異。男らしさ、女らしさといった言葉で表現されるもので、生物上の雌雄を示すセックスと区別される」(『デジタル大辞泉』)。いわば、女性と女性性との区別である。 社会、文化といえば、時代と地域によって様々に移り変わる。伝統的な女性像とか日本人固有の性質とか見なされていることが、実はそんなに歴史がなくて江戸中期や大正時代以降に広まった事象だったりする。 まあ知ったかぶりするのも気が引けるが、学生時代芥川龍之介の小説を読んでたら、平安貴族の物語で「大饗に等しいと云つても昔の事だから、品数の多い割りに碌(ろく)な物はない」(『芋粥』)と書いてるわけさ。大饗というのは、平安時代のたぶん最高級の宴会料理なのに。 そのあと、たまたま丸谷才一(昭和・平成期の文学者、文化勲章受章)の随筆を読んでたら、(食通の人たちが薀蓄を傾けるような)ぜいたくな日本料理のラインナップが出揃ったのは大正時代ごろ、と書いてあった。そういえば第一次大戦後の空前の好景気に沸いたのが大正時代だった。成金たちが美食に凝ったのだろう。芥川が活躍したのも大正時代だよね。それで話がつながった。なお、丸谷には『食通知つたかぶり』という名随筆がある。 それから、ネットのデマで、「カリフォルニアで日本企業駐在員の妻が母子心中事件を起こし、自身は生き残って子は死んだ。エリートの夫は激務で、妻は幼子を抱えて孤立感に悩んでいた。ところが情状酌量が認められず、陪審団は彼女に死刑の評決を下した」というような話が流布されていた。母子心中は日本特有で、その文化がアメリカ人どもには理解されなかったなどと、ネトウヨが騒いでいた。 しかし、それに該当すると思われる事件の判決は、死刑じゃなくて比較的軽い懲役刑(ただし執行猶予なし)だった。心神耗弱が認められたようだ。そこで、ネトウヨのガセネタよりも専門家の論文を読もうと、母子心中を少し調べてみた。 意外なことに、大正時代から増えたんだって。それ以前は捨て子が多かったそうだ。もちろん捨て子は違法だけど、合法な方途として里子に出したり、年端も行かぬうちに奉公に出したりすることは珍しくなかった。 それが変わって、我が子を育て上げるのが「家の義務」となったのは大正時代ごろだという。しかし、捨て子や口減らしをせずに義務を果たそうとして行き詰り、心中に走るケースが増えたのだった。以上、案外歴史が短いらしい日本の伝統を二つ挙げてみた(豪華日本料理の普及、母子心中)。 (3) 「理性」に話を戻すと、「性」の字に注目することにより、理性の特徴が二点見えてくる。 第一に、理性はヒューマニズムである。ヒューマニズムとは「人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざす思想」(『デジタル大辞泉』)であって、人間は生来の理性を発揮し、この解放を推し進める。理性とは、理論のための理論などではないのだ。論理的に正しくても非人間的であるような論理は、理性に反する。 また、伝統や慣習や古い社会通念は、なるほど人間が年月をかけて培(つちか)ったものであり、愛着もあるけれど、やがて人間性を抑圧する桎梏と化す。脱皮すべき古い殻(から)と化すのである。伝統や慣習などは人間のために存在するのであって、伝統や慣習の型にはめるために人間が存在するのではない。 第二に、理性は性善説である。人間性というものに対する篤(あつ)い信頼に基礎を置いている。私たちは、古い道徳の箍(たが)を外した時に立ち現れる人間の本性が、獣性ではなく理性であると信じる。 伝統主義者が誇る醇風美俗(じゅんぷうびぞく)は、なるほど日本の宝であろう。しかし、古い因習や長年の権威よりもさらに古くから日本の宝であったのは、日本人である。日本人には、伝統を取捨選択する能力も権利も備わっている。 (4) とは言うものの、理性の旅路は滑らかではなかった。 理性の発展はヘーゲル(1770 - 1831年)の哲学において頂点に達した。「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である」(『法の哲学』)。しかし、この有名な言明はまさに頂点というか尖がり過ぎで、逆に禅問答のように真意が分かりにくい。果たして現実的であることは理性的であることの必要十分条件なのか。 そのヘーゲルの孫弟子がマルクス(1818 - 1883年)だった。マルクスは法学部を出たのだが、彼の興味は法学から哲学へ移っていた。法学部に入ったのは、父親が敏腕弁護士だったからだろう。実家が裕福で仕送りが潤沢だったので、若きマルクスは自分も早くお金を稼げるようにならなければという気が起きなかったらしい。しかし父は急逝してしまうのである。 マルクスは貧窮の中で哲学と経済社会を考究し、ヘーゲル哲学の体系を逆立ちさせて、独自の思想体系を打ち建てた。逆立ちさせたうえで利用している。すごく大雑把にいうと、ヘーゲル哲学は弁証法を駆使して物質と精神とを統一的に説明するが、精神(世界精神)本位である。マルクス哲学も物質と精神とを統一的に説明するが、物質本位である。 つまり、マルクスの唯物論は唯(ただ)物(もの)論じゃないのだ。物しか信じないなら、物資生産力でソ連がアメリカに負けた時点で終わりじゃん。しかし、マルクス主義は哲学仕立てになっていたので、インテリたちは「万物の理法を正しくつかんでいるのは我々の側である」として、形而上の議論に耽った。 ここで気を付けなければならないのは、諸国の左翼知識人の大半が早くからソ連に愛想を尽かしていたことである。「反スターリン」が彼らの合言葉で、ソ連の体制派を「官許社会帝国主義」として共産主義の風上にも置けないと難じた。諸国の左翼知識人は、「レーニンに戻れ」とか「初期マルクス思想を再発見せよ」とか「ユーロコミュニズム」とか「自主管理社会主義」とか、まあ要するに四分五裂だった。 1990年ごろにソ連とその衛星国が崩壊すると、彼ら知識人は狼狽するどころか、「諸手を挙げて歓迎する」と言った。第一、それ以前から左翼は退潮していたのであり、「今さら驚くとでも思ってんのかよ」といったところだった。だが、その後も左翼の行く手は険しかった。あろうことか日本ではネトウヨが台頭した。 かつて、このように愚考をめぐらした私は、――確かに愚考であって、弱点だらけだが――逆にネトウヨの愚かさもはっきり見えるようになった。私はネトウヨにならなかった。
- gusin
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ヤクザとお友達になったからであります・・・・・・・・・・・・・・・・wwwwwwwwwwww
- hekiyu
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ねとうよ、という自覚はありませんが、保守という 自覚ならあります。 私が保守になったのは、社会主義国が軒並み崩壊 してからですね。 人間の理性を信じて政治をやろう、というのが革新 ですが、社会主義はその革新の典型です。 それがモノの見事に崩れた訳で、これはもう イケマセン。 やはり、伝統、習慣、常識といった試行錯誤の結果の 方がはるかに信用できるんだな、と悟りました。 社会主義を標榜するひとはまだ諦めず、色々と理由を つけていますが、現実に合わない思想は悪い思想です。 思想は人間の為に存在するのです。 思想の為に人間が存在するのではありません。 人間を無理矢理思想という型にはめようとするのが 革新の悪いところです。 だから失敗するのです。 こうした結果、社会主義が産んだのは、独裁と貧困と虐殺だけでした。 彼らは、楽園を造ろうとして地獄を造ってしまったのです。 それと、知識人というものに対する信用もなくなりました。 知識人の多くが、社会主義を賞賛していたからです。 そういう目で思想や歴史をみると、保守にならざるを得ません でした。 人間の理性なんて、しょせんはちっぽけなものなのです。
補足
思想の問題ではなく指導者の質でしょ。 今の安部晋三は国民の税金をあげて 公務員の給与をあげる、庶民を貧窮させる政策。 かれの祖父岸信介は戦争犯罪者で逮捕されましたよね。 あなたが列挙していることが自由民主党にあてはまりますよ。