子ども本人にとっては、そのいずれが欠けても問題が生じてしまうするケースは当然あるでしょうが、親と先生、どちらが主体的に「叱る」役割を果たすべきかというと、私は親の方だと思います。
子どものためばかりではありません。子どもをきちんと叱ることで、親も一緒に「大人」になっていけるのです。
子どもに説教しつつ、心の片隅で「私にそれが言えるのか?(汗)」と自問自答した経験は、皆さんおありかと思います。
叱責の言葉を発した親自身が、説得力ある言動を子どもに示していけるよう、「子に叱責した内容を、親の方こそ有言実行できているか?」といった疑いの目を、子どもから向けられることなきよう、子と共に切磋琢磨するつもりで我が身を戒めることも、「親の成長」に繋がります。
話は逸れますが、以前、勤め先にいた産休前の女性社員が、職員の陰口をつぶやいたことがありました。
それを隣で聞いていた先輩社員が、一言、「その言葉、子どもが聞いてるよ」と、指摘したのです。
女性社員は、先輩の言葉にハッとしたようで、直ちに陰口を止めました。
また、教育や躾は、なかなか一筋縄にはいきません。
教わる(躾けられる)側を、教える(躾ける)側にとって都合よくコントロールできることの方が、むしろ稀かも知れません。
時には褒め、時には叱り、時には煽て、時にはなだめ、時には慰め、そうした試行錯誤を繰り返しながら、教育や躾が実を結ぶまでの耐性を身に付けていく。
そうした試練も、子のみならず、親にとって大切な修業であり、成長の過程に欠かせぬ経験です。
私は勤め先の至る所で、新人社員をヒステリックに叱り付けるタイプのお局様とたびたび出会ってきました。
その内の何名かに、「家でもその調子で、子どもには厳しいお母さんなんでしょうね」と、冷やかし程度に声をかけたことがあります。
ところが、不思議なことに、返答は決まって同じ。
「家では子どもに手をあげることはもちろん、叱ったこともない」
意外でした。
彼女たちの年齢層は、30代~50代で、いずれも育てた子どもの数は、2人~3人。
教育や躾に不慣れとは思えぬ彼女たちが、新人が期待通りに成長しないことに、ヘソを曲げ、癇癪を起こし、駄々っ子のように喚き立てる光景には、ただ驚きを感じたものです。
育児年数が長くても、子どもを叱ることも叩くこともない方針に甘んじてしまい、教育や躾の仕方も、それがままならない結果に終わる現実問題への対処法も、身に付ける機会が持てないままでは、人は「大人」にはなれないのだと、あらためて考えさせられました。
最近は折に触れ、「イマドキの親は」と、若い親への批判が散見されますが、子どもが親の背を見ながら成長するのと同じで、親は子の視線を感じながら親になっていくのであって、出産や育児をただ経験するだけでは、人は「人の親」にはなれないと思います。
我が子を「きちんと叱る」ことは、親である自分たちを「きちんとしたパパとママへと育んでくれる」重要なステップなのです。
せっかく巡り逢えた教育や躾の機会なら、「責任問題、責任問題」と無味乾燥に捉えてばかりでなく、そうしたありがたい気持ちをもって、満喫したいものです。
お礼
>親も一緒に「大人」になっていけるのです そうですね、それを考えると今の親はもしかしたら子供を叱ることで、“子供からどう思われるのだろうか?嫌われないだろうか?”という不安が先行するあまり叱れないということもありそうです。 見ず知らずの人(例えば私など)が子供を叱ると、その母親が“おじさんに怒られるから止めましょうね”と子供に諭すことがありますが、これなどは無責任の極みですね。 回答を頂き、ありがとうございました。