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全聾の作曲家佐村河内守というイメージ
- 全聾の作曲家佐村河内守というイメージは、ヒマラヤで最終解脱を果たした麻原彰晃の”全盲の作曲家”から三枝成彰がヒントを得て、彼にサジェスチョンを与え、出来上がったものとされています。
- 1995年に三枝氏がオウムの曲をテレビの取材で分析し、その見事さに興奮しました。この説は、全聾の作曲家佐村河内守が三枝の提案により生まれたものであり、麻原彰晃の手法をまねた詐欺師と考えられています。
- オウム真理教は、麻原彰晃自身が音楽が好きであり、幹部が音楽教育を受けていたため、多数の宗教曲を製作していました。信者によって構成されたロックバンドと共に、演奏会も開催されていました。
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佐村河内は、あるテレビ局の番組の取材で、高校時代はいわゆるヤンキーで、俳優志望であり、悪役などのチョイ役で実際に出演したらしい。自己顕示欲が強く、当時より自作自演ぽい演技をすることを好んだ。 当然、麻原彰晃の詐欺師ぶりを目の当たりにし、参考にしたはずである。 1995年に三枝氏はオウムの曲をテレビの取材で分析し、その見事さにある種の興奮を覚えた。 http://www.youtube.com/watch?v=349Lx6HfdRY 翌1996に、佐村河内は初めて新垣隆に依頼し作品を発表する。 三枝成彰と佐村河内の出会いなどはまだはっきりしないが、2003年秋、『交響曲第1番 HIROSHIMA』の発表の暁には、大絶賛していることから、以前から彼とつながりがあり、「仕掛け人」になっていたことは十分に想像できる。無名の人間が世に出るためにはまずはは有名人の推薦が必要である。しかも、この作品は現代音楽とは異なり内容はマーラーの時代に逆行しており、亜流であるとの専門家の指摘も多く、良識ある音楽家は無視していたキワモノであった。これを大絶賛したのであるから、三枝と関係があったことはもはや疑うべくもない。新垣―三枝成彰間には当然交流があり、麻原の作品を分析した三枝の入れ知恵と根回しで世に出たのである。三枝は、プロであるから、当然佐村河内の胡散臭さは見抜いていたはず。これらは、着々と計画通りに行われた。 こうして現代のベートーヴェンという虚像は、ヒマラヤで最終解脱した麻原彰晃と同じく、作られたのだった。身体障害を逆手に取るのは、麻原彰晃と全く同じ手口。マスメディアを使い世間が見事にだまされたのも、全く同じ。歴史は繰り返すのである。 誰もが、こうした神話を欲しがっている。背景にあるのは、この大衆心理。身障者が血と汗で苦悶しながら、名曲を作り上げる・・・。 感動したい大衆は、簡単にこの手の話にだまされ、絶賛を送る。 ベートーヴェンの曲が偉大なのは、彼がつんぼだったからではない。曲の出来がよかったからだ。「hiroshima」をもめそやしていたのは普段クラシックなどほとんど聞かない素人がほとんどであった。
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