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松本清張ドラマ「顔」で、小椋涼子逮捕の証拠は?
- フジテレビの「開局55周年特別番組「松本清張スペシャル『顔』」で、松雪泰子さんが演じた犯人役の小椋涼子を逮捕することのできる証拠はあるのか?
- 田中麗奈さん演じる目撃者が汽車の中で小椋涼子を見て「あの女だ」と思い出し、刑事が逮捕に向かうが、証拠は提示されていない。
- 捜査する側は小椋涼子の過去を調べて、論理的に追い詰めることができるのか?小椋涼子が否定し続ければ警察はどうすることもできない。
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#2 の回答者です。「お礼」に書かれてある内容をみて、再度投稿することにしました。 質問者様は、いささかテレビドラマでの警察の捜査活動に拘り過ぎているように感じられます。 「ご都合主義」とのことに触れられていますが、長編推理小説の本格物だとか警察小説のジャンルであれば、伏線を張り巡らせた上で、捜査の具体的活動内容を記述し、最後に論理的な証拠を提示して、大団円を迎えるというのが常道です。 『顔』については、最初から犯人は分かっているのですから、捕まるまでの不安な心理を描く倒叙物の分類に入るのかも知れません。 松本清張の作品でも、出世作『点と線』を始めとして、『目の壁』『ゼロの焦点』『砂の器』『時間の習俗』などの長編小説では、捜査の経過が細かく描写されています。 これは長編だからできることです。 短編というものは、それほど紙数を費やすわけにはいきませんから、謎を提示し、読者が思いもつかない発想のストーリー展開をさせて、なるほどと思わせようとするものです。 このことは何も清張の短編だけでなく、古くはシャーロック・ホームズ譚のような短編でも使われていることです。 それでも全世界にファンクラブができるほど支持され、その名声に陰りがある訳でもありません。 短編というものは、そういうものなのです。 短編で細かい捜査方法の記述までしようとすると、結局は長編になってしまいます。 私が申し上げたいのは、あるドラマで短編を原作にしたものだと謳う場合には、最低限、原作の根幹である部分は残して、後は自由な脚本にすることは可能だと思っています。結局、映画化・トラマ化されたすべての作品がそうであるように。 そうでなければ、原作とは言わずに、新しいドラマの制作だと言って一向に構わないのではないでしょうか。 小説の映画化と言っても、結末が小説とは正反対ということもあります。 例えば、パトリシア・ハイスミス原作の『太陽がいっぱい』(近作でのタイトルでは『リプリー』)では、原作での結末は、主人公・リプリーが逃げおおせるのに対して、映画では逮捕されてしまいます。 そういう意味では、小説と映画は、別の作品だとも言えます。 松本清張は、従来の絵空事的だったミステリ小説というものに、人間の心理を中心とし、動機に焦点を当てて、小説に現実味を持たせたことによって、多くの読者に受け入れられました。 まさに社会派と呼ばれた所以です。 短編『顔』についても、あまり細かいことに捕らわれない方がよいのではと、私は思います。
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- technatama
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私はこのドラマを見た訳ではありませんので、脚本がどのようになっていたのかは分かりません。 新聞の「番組ガイド」欄に紹介されている文章を読むと、松本清張の原作とは舞台設定や登場人物など大幅に変更されています。 原作の推理短編『顔』は、1956(昭和31)年8月に、雑誌「小説新潮」に発表されました。 同年10月には講談社ロマンブックスとして、推理短編集『顔』が発行され全6編収載の冒頭作になっています。 この短編集により、1957(昭和3)年3月、「第10回日本探偵作家クラブ賞」を受賞しました。 これまでにも、映画を始めテレビドラマなど何回も映像化されてきました。 今回のテレビドラマ化は、12回目のようです。 それらの映画・テレビでは、いずれも原作のメイン・テーマである “顔”がスクリーンに大写しになる俳優を主人公に据え、 大勢の観客がそれを見ることで、自分の過去の秘密を知る人にばれてしまうかも知れないという恐怖感と 有名になりたいという気持ちと葛藤する心理描写は変わっていないのです。 しかし、舞台設定、登場人物の関係等は、原作とは全く異なっています。 原作では有名になりたいと思っている俳優の卵は「井野良吉」という男性ですし、 愛人関係にある大衆酒場の女給を殺そうと、温泉旅行に誘い出した汽車の中で 女給が勤める酒場の男性常連客「石岡貞三郎」に二人のところを見られてしまう。 自分の顔を覚えられてしまったのではないかという不安が募ります。 「井野」は特異な顔をしているがゆえに、映画監督に評価されて、端役から徐々に重要な役が与えられるようになる。 しかし有名にはなりたいものの、大勢の人に見られる機会が増えることで、「石岡」に見つかる可能性も増える。 その辺のそれぞれの気持ちを、「井野」の日記と「石岡」の立場とを交互に描くことでストーリー展開していくのが原作です。 長編小説であれば、具体的な捜査活動、証拠の提示などが当然記述されるものでしょうが、短編の場合は、メインテーマで読者の興味を引きつけておくことの方が、重要なのだと思います。 ドラマで視聴者の興味をどう引きつけるかは、制作者の考え次第でしょう。 原作の最後でも、「石岡」は「井野」が出ている映画を見、 “俺は、映画館をとび出し、胸の動悸の激しさに困りながら、警察に向って大股で歩いていた。一刻も早く、この疑惑を言葉で吐き出すためにだ。” で終わっています。
お礼
>>◇しかし、舞台設定、登場人物の関係等は、原作と は全く異なっています。 そうですか・・・。 なら、納得のいくことがあります。 つまり、松本さんらしくない「ご都合主義」のことです。 私見では、松本さんの作品には、他の作家の作品に見られるような「ご都合主義」は殆んど無いのですが、この「顔」には幾つか在ったように思いました。 その時は、「これは、あくまで、テレビドラマだ」「原作にどれだけ忠実に作られているか・・・」「原作の小説は、ちゃんと書かれているかもしれないし・・・」と思いましたが、やはり、原作は改変されていたんですね? 一度、原作を読んで、「証拠」についても確認してみたい、と思います。 ご回答、有り難うございました。
- habataki6
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毒の容器と思われるのありましたからグラスに入れたのではありませんか 逮捕直前に飲んで倒れるのではありませんか、番組はその前に終わって いるので想像でしかありません。
お礼
>>◇毒の容器と思われるのありましたからグラスに 入れたのではありませんか ただ、その毒は使われませんでした。 そのため、証拠にはなっていないように思いますが、いかかでしょうか? 早速のご回答、有り難うございました。
お礼
再度のご回答、有り難うございます。 こうした、推理ドラマでの「ご都合主義」については、いろいろと、書きたいことはありますが、今回は、やめておきます。 ご回答のコメントは、参考にさせて頂きます。