結論はNo.9の方と同じで、件の職務命令自体が憲法違反だと思いますが、もう少し別の視点から補足させてください。
そもそも学校行事で国歌を斉唱すること自体「グローバススタンダード」ではないと思います。自分が生活したドイツ以下、欧州数カ国の事情しか知りませんが、私の知る限りどの国でも学校行事で国歌は歌われません(それ以前に入学式もなかったりします)。いずれの国も政治的に成熟安定した議会制民主主義国家ですし、国旗国歌も憲法に明記されていますが、学校で国歌を歌わないからといってことさらモラルが低いとか犯罪が増加している風にも見えません。一方、民族意識が強いことで知られる小国もいくつか訪れたことがありますが、国歌が登場したのは、きわめて政治色の強い街頭集会だけです。興味深いのは、こういう国や地域の方々に日本の学校の「君が代」をめぐる問題を説明すると、「そんなばかな、国の旗や歌を敬うのは当然じゃないか!」ではなく、「うんなるほど、そういうこともあるだろうね」と一応の理解を示されることです。他の民族宗教との確執や不寛容の問題と現実に向き合っているからこそ、出てくる言葉ではないでしょうか。
入学式や卒業式は、学校主体で来る人去る人を歓迎歓送する行事であって、国との結びつきを再確認するような場ではないと思います。学校への愛着なり郷土愛なりを重視するなら、校歌と一緒に県歌(州歌)でも歌えばいいのです。県歌なんか知らない、聞いたことがない、と一足飛びに国歌に飛びつくのは、それだけ地域の文化的独自性がないがしろにされている証拠ではないでしょうか。
また、この種の議論で決まって話題にのぼるアメリカ合衆国ですが、成り立ちが特殊すぎて、他の国の参考にはならないと思います。日本と同じように、立憲君主制かそれに近い政治制度があり、国民の大多数が同じ民族で(本当は一概に言えませんが)文化的均質性が高く、国自体が長い歴史的伝統を持つ、などの点では、アメリカよりもイギリスなりイタリアなりドイツなりを見習った方がいいと思いますが、これらの国については既に述べた通りです。
No.10の方は「エホバの証人」について1940年の連邦最高裁判決の例を出されたものと推察しますが、有名な「バーネット事件」に関する1943年の米連邦最高裁判決、1966年のニュージャージー州最高裁、1971年メリーランド州控訴裁などでは、むしろ忠誠宣誓に参加しない権利を認める旨が述べられています。また1969年のニューヨーク州東部連邦地方裁判決のように、忠誠宣誓の文言そのものに対する批判的意見の自由を保障し、宣誓時の起立拒否の権利を認める判例もあります。
なお、「君が代」に反対するなら対案を出すべきだ、とか、なぜ新しい国歌を作る運動を起こさないのか、といったご意見もこの種の議論でしばしば拝見しますが、どのような内容の国歌であれ、学校行事の出席者に強制することが問題なのであって、新しいものに変えればよいとか、軍国主義だからダメ共産主義ならOKとか、そういう問題ではないと思います。仮に、私個人が100%納得するような国歌が東京の政府で制定されたとしても、学校行事で全員に歌わせるというなら反対するでしょう。
スポーツ競技の開会式などの国歌斉唱までやめろとは申しません。個人的には不快ですが、嫌なら退席すればいい、或いは始めから行かなければいいだけのことです(もっとも、国際試合の国歌演奏でも外国選手の大半が歌っていなかったりしますが)。学校行事の場合、それすらも許されない点が問題なのです。
最後に、質問者さんは「とくに関心がな」く「どうでもいいこと」と言われますが、自身の意志に従ったために処分される先生たちが日々どのような仕打ちを受けるか、また、本心を押し殺し命令に従った先生たちがいかに荒廃した精神状態に追い込まれるか、リアルに想像してみることも大切ではないか、と思います(野田正彰『させられる教育 思考途絶する教師たち』岩波書店,2002年 などをご覧ください)。
お礼
締め切ったあとにも関わらず、それも詳細な回答ありがとうございました。 大変興味深く読ませていただきました。 ただ最後のくだりで補足(?)させていただきたいのは、 「とくに関心がなく、今の自分にとってはどうでもいい」 というのは、国歌・国旗に関する議論に対してひいてしまっているからです。 自分のなかでは質問の通り「こういうものを強制するのはおかしいのではないか」と常に思っています。 したくない人はそれなりの行動をとればいい、したい人はすればいい。ただどちらの立場にしても、強制するのはどうか、と。 自分の場合はというと、幸か不幸か思い詰めるほどのものはないし、自分一人でなく家族も含めたいろんな人間関係があるので、しいていえば消極的参加みたいなものでしょうか。 ただ信念をもって行動している教員の方々にとっては、勿論つらかろうと思うし、気の毒だとも思います。 高校1年のときに、ある先生が担任についたのですが、その先生は翌年、新設校にとばされました。 自分の信念に基づいて、筋の通った話、行動をされ、しかし決して授業の課題以外のことで何かを強制したり、自分の信念を強く語ったりということのない、リベラリストはこういう人のことをいうのだろうと感じさせる方でした。 が、どうやらその言動が原因らしいと後にききました。 音信こそありませんが、今でもその先生のことは尊敬しています。 そういう経験もあり、苦しまれている教員等の方々に対して感じるところがないわけではありませんでしたが、 自身は先に述べたように国歌国旗にどちらにせよ特に強く思うところがないことから、 言葉が足りず不快な思いをされた方もいらっしゃるかと思います。 この場を借りてお詫びします。