• 締切済み

「愛」について。

「愛」と聞いて思い付くことを教えてください。 私は 「愛を金で買えると主張する人達の言うそれは単なる媚に過ぎない」です。

みんなの回答

noname#196757
noname#196757
回答No.30

こんばんは。 別に私は「続けよ!」なんて言ってません。 もう・・・確信犯を相手にしていると空しいやら疲れるやら(大笑) でもまあmarcさんの言うことにも一理はあるので、 >嫌がられても空気なんて読まずに・・・ 私はこの嫌がられると言う自覚がある限り構わないのかなと思います。 でもまあのべつまくなしは、さすがにね! ほう・・・またつまらないことが? marcさんの回答文を読んで知りましたが、 私はイラッとして癇癪をおこし退会しましたがね、 面倒ですから止めたほうがよろしいです・・・経験談です。

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) どうやらmarc2bolantiさん、勢いが止まらないようです(笑) まぁ、トラブルの関しては私自信もやり過ぎたかなという自覚もあるんです。 何しろ、根本的に合わない人への嫌悪感が異常に強いもんですから。 しかし、私の質問が、こんなに読まれているとは夢にも思いませんでした。 私なら、この人合わないなと思ったら金輪際読まないですけどね(笑) ではまた(笑)

回答No.29

 今日は、サンデル先生(笑)。 ホラね! 複数である事は何と素敵な事でしょう。 もう止めようと思ってた処に、絶妙な愛の手入れて頂き、何やら「続けよ!」と言う天の声聞こえた気が、、違うか?笑)。 止めちゃうのは私含めて日本人のダメな所で、仮にもワントップ張ってる選手は、嫌がられても空気なんて読まずに続けねばならんのでした。  仰ってたブラジルサッカーセレソンが胸前で十字切るの見て、一人でも布教続けるミッション使命、骨髄まで染みてるから強いと、長年観戦の結論なんです。 信仰の強度。 私は仏教徒ですが、仏教は愛では無く慈悲なので、どうしても話題は基督教になります。 Jレノン、Bマーリーの力強さもそこから来てて、聖書良く引用しますね。さらにボブはエチオピアユダヤ・コプト教会まで行くので後追わないと敵いません、彼らは愛を鍛えてますから。日本の追従者はその背景、無視しがちです。音楽自体が祈りで御座いましょうが、その背後にも、。コルトレーンも聖者に成りたい!と言ってましたね。  私特に高尚な話したい訳では無く、只悔しいんです。 でも此処でなきゃ話す機会無いのは御指摘どおりです(笑)。 大震災後一週目で避難者受け入れ一番少なかったのが神奈川県で、恥ずかしいです。そこで有名な(国宝建築で)寺社に掛け合っても慳もホロロに「前例が無い」でまさに門前払い。鎌倉仏教ですよ! 前例大有りです、日蓮親鸞一遍それぞれ対立有っても、救済に燃え立ちました。真言律宗極楽寺開祖の忍性は、療病院・悲田院・福田院・癩宿まで作って貧民救済してます。今ではネット世代の若手僧侶が宗派超えて慈善活動やっと始まった程度です。 だから私も怒ります。  でも怒り憎むとオイラ、頭痛くなるんですよ(笑)体も強張るし、。まるで孫悟空の頭の箍タガが呪文で締まるようです。「緊箍児」きんこじ、別称「金剛圏 」と言うそうですね。 なので控えるようになりました。他回答様仰るように、憎み続けるのはエネルギ要りますね。 私今でも怒るのは他人の生命蔑がしろにする輩にです。携帯電話運転で児童の列に突っ込む奴、目の前で見ました、事故にはならなかったけど、。まあ外出するとドタマにきますね、そんで頭痛です(笑)  只、正等な憎悪が有る事も理解します。拉致被害者家族等、憎みを支えにしないと生きていけない境遇・時期は有ります。でも憎悪自体はやはり頭と魂を傷めますね。その事はスピノザが完全に証明してます。それに、怒・憎で闘うのは弱いです、だから敵討ちには実質助っ人必要となります。  しかしブッシュのように、愛と正義の名の下に戦われても、間違ってりゃいずれ破綻しますね。 だから洋の東西問わず宗教批評・吟味(カントの純粋・・批判は吟味が正訳だってね!)必要で、私はその立場です、キルケゴールも良く解りません。でもあの過激な宗教的立場は蔑しろに出来ない!と、歴代の哲学者は困惑しながら必読だそうですね。愛の宗教にはそんな感想持ってます。  それにしてもこちらには懲りない面々いらして、実に心強いです(笑)。やはり日本人の自粛癖は遺憾、だと言う事で、再度長文どうか御容赦しましょう(笑、私PC絵文字入力出来なくなってます)

alterd1953
質問者

お礼

ははは。 長老のブレーキにも関わらず怒涛の勢いですね(笑) でも、こんな話が結局1番面白いですもんね。 以前、仏教の請願で 「衆生がどれだけ多かろうと最後の一人まで救う」というのを読んだ時に その途方も無い理想主義に感心したものですが地に落ちましたね。 「前例が無い」ですか(笑) でも、あれですよね。 世の中に、親や教師を初め、警官、医者、弁護士、官僚、経営者等、全ての立場で 一体、どれだけ「本物」と呼べる人がいると思います? その割には何とか世の中は回ってるんじゃないかとすら思います。 ですので、私は昔から、世の中には生命を維持すること以外はあまり期待してないんです。 そして、だからこそ、こちらの常連さんが物凄く貴重なんです(笑) ではまた(笑)

noname#196757
noname#196757
回答No.28

こんにちは。 驚きましたねぇ・・・。 どうしてまた「愛知」で始めた話しをキェルコゴールまで・・・ Ciaopoloさんのキリスト愛も分かりますし、 adele24さんの話しも頷けます。 marcさんから哲学に? 殆どサンデル博士の「白熱教室」です!(笑) あまり敷居を高くしないでくださいな!参加しずらくなりますから。 それでなくともこの暑さで頭が熱いのですから・・・。

alterd1953
質問者

お礼

ははは。 確かに、marc2bolantiさん辺りで一気にヒートアップしますね。 でも、hazarさんなんかもそうだと思いますが 日常で突っ込んだ話を出来る相手がきっといないと思うんですよね。 私も深い話が大好物ですし、こういう場所はなかなかありませんので どうかご容赦ください(笑)

  • adele24
  • ベストアンサー率13% (47/340)
回答No.27

こんばんわ。 学術的なご回答が続いてるところに、ちょっとオジャマいたします。 聖書をちゃんと自分で読んだことありませんが(-_-;)、私にとって「愛」はキリスト教的な神の「愛」です。 幼い頃は、わけも分からず’地獄’に怯え、その後、子供の頃受けた宗教教育の中で、「神はその一人息子を遣わす程に私たちを愛してくださった、人間は弱く罪を犯しやすいけれど、心から悔い改めれば、神さまは必ず赦し、罪人をも神は愛してくださる。」と、都合よく?聞いた覚えがあり、心からホッとして(^^ゞ神=愛となりました。 「愛」って目に見えませんが、人の心の中にあるものでしょうね。できれば人は「愛したい」と思ってるものだと思います。だから、通りすがりの隣人を愛するのは簡単ですね。 でも、9で回答しましたが、人間には好き嫌いがありますから、嫌いなものを好きになることはできません、けど、大きな意味での愛を持つことはできると思います。 だから、どこかで仰ってた、適度な距離をおくことは肝要なのかもしれませんね。 犯罪被害者の遺族が即座に加害者を赦すことは、わかるような気がする、なんて軽々しいことは言えません、。  が、「赦す」ことは、「神に委ねる」ことであるのかな、と思います。 あるいはそのことで加害者が怖れ慄き、心から悔いるならば、殺された被害家族も救われると思え、何より、憎しみから救われるでしょう、。 でも、>統計的に25人に1人ぐらいは全く良心を持たない人間もいるらしい事 そうですね、これは、そうとしか思えない事件が多々ありますね。心のどこにも「愛」を持たなければ、どんなに「赦し」を得たとしても、何も呼び覚ますことはできません。病気でしょうか、だとしたら残酷ですね。 ある事件を思い出したのですが、本当に辛い事件でした。 心から悔いることもなく、人間性の欠片も見せなかった加害者には死刑判決が出ましたが、ずっと長い年月戦ってきた被害者家族の方は、「この事件に勝者なんていない、皆、敗者である」「願わばこのような犯罪が起こらない世の中を、。」と仰しゃってのが印象に残りました。 生まれもった病気でない限り、そういう人間を作り出さない世の中にしなければいけませんね。 人間もパピーウォーカーと同じ、社会、あるいは神から預かった子供を、愛し慈しみ、社会に返さなければ、やっぱり「愛がすべて」と思うところでもあります。 まとまりのない文になりました、。 あ、それから、 >私は、矛盾かも知れませんが「無垢」を抱えたまま スキルをひたすら磨こうとしています。 alterd1953さんらしいし、その意味はわかる気がします。

alterd1953
質問者

お礼

恐らく理屈っぽい話は苦手でしょうに 真摯なご回答ありがとうございます。 まぁ、本物の宗教全般に言えることかもしれませんが 「神の愛」は仏教で言う「大悲心」に似ているかもしれませんね。 ですから罪人にも憐れみの心を持つのでしょう。 私も残忍な心を持って生まれることは非常に不幸なことではあると思います。 だって幸せな人生を送る可能性は、ほぼゼロでしょうからね。 但し、彼らを赦すか赦さないかはまた別の話なんですね。 被害者家族の「この事件に勝者はいない」という言葉は哀切を極めますね。 U2のボノが言ってた 「薬が買えなくて死んでゆく子供がいる世界で真の勝者はいない」と どこか通じるように思います。 ただ、現実には凶悪な少年犯罪の加害者が 早々に施設から出て来て、自分の行った犯罪の自慢をしているとか シリアの政府軍側の兵士が女子供を撃つ時の罪悪感を減らす為に 麻薬を使っているとかを聞くと救いようのない気持ちに襲われます。 後、私の心持ちを理解して頂いて嬉しいです。 かって、ある空手家が言った 「鞘の中の刀を磨いていれば、例え、抜かなくても自信を持って生きて行ける」と いう言葉に感銘を受けました。 でも、私の刀は全然なまくらですけどね(笑) ただ、私は元々競争が嫌いですので人に勝つことはどうでもいいんです。 グレン・グールドが言っているように 「音楽は競争ではありません。恋愛です」からね。 ではまた(笑)

回答No.26

 今晩は。二人ではなく複数の御意見伺えて、 とても参考になります。もう十二分ですか? いえいえ未だまだ。 折角の御質問、佳境に入って参りました、お放ししません(笑)。  いえ一寸言い忘れたので、。あの獲物の小鹿を守護した雌ライオン、 満足なのか? 何か戸惑うような不思議な顔をしてないでしょうか? 被害者に許される被告の黒人青年の戸惑いも似た事なのでしょうか?  無垢;無防備な幼子は、猛獣からも愛の力能を引き出しました。丸腰の力?   でも人間はどうでしょう? 無償の愛・無防備都市、ガンジー&MLキング牧師の非暴力・不服従抵抗、私も戸惑いながらも強く惹かれます。 ですがそこに一抹の疑念を持つのは、その非暴力・愛・無垢が逆にViolenceを呼び込んでしまうのでは? その恐ろしさなんです。勘違いかも知れません、でもファニードゥルーズがキリストに見出した、幾分自殺的な生の在り方を感じてしまうのです。  二人を殺害した犯人の心は解りません。残虐な人は確かに確率的に生まれてきます。 大抵は脳機能障害、ワニやサメ等の攻撃的な古い脳が優位に成り易いとか、。快楽殺人すらまだ理解想像は出来ます。でも正常なのに、幼児や聖者に敢えて挑む輩(優秀なサイコパスかも )これが恐いのです。 信仰で「赦す」とは多分それら全て含めてなんでしょうね。最も弱く生まれる哺乳類;人間は暴力を呼び込む{ヴァルネラビリティー}と言う特徴がある、ゆえにその暴力も赦す信仰が生まれたのか?  数年前通ってたプロテスタント教会の仲良かった牧師さんが、ある日のミサの後ふと漏らすんです、「実はおととい妻と子供が交通事故で亡くなりましてね、、」仰りながら淡々と日課を勤められるのです、私の方が驚愕し慟哭します。車で撥ねた犯人を、多分赦すのでしょうね。 信仰とはそんな事だと思い知らされました、躊躇します、私は未だに洗礼は受けてません。 「畏れと慄のき(キルケゴール」を持って信仰する(ピリピ書2章12節)、この著作では、創世記?でアブラハムに神が、実子イサクを供犠として捧げよと迫る話の変奏を書いてますね。 聖書では結局その試練を受けてしまうアブラハムに今度は、否、息子を殺すな、と止めるそうですが、この神の試験!までも信じるのが彼の地の信仰なのでしょう。 これにはカントが哲学理性の立場からしっかり分析加えてるそうですが、宗教信仰には負けがちなんですよね、哲理は。 私が思うにそのアブラハムの信仰はマルクス柄谷の言う「暗闇の中の跳躍」、丸腰でライオンに擦り寄る小鹿も、命は投げ出してます、傍から見ると。 でもあの赤ちゃんにそんな気は無く、只無邪気。 信仰の理想とはそんなイノセンス幼子の奇跡、への信心だと私はおもってますよ。 皆様にも祝福、既に有ります、その気になって見れば。と言う事でしょうか。 私、愛はそんな処です。 震災の時や山谷の家無き支援では、仏教坊主よりもクリスチャン方が助けて呉れてました。この場借りて感謝申し上げます。情けないな現代東洋は、。私はそちらの方に強い怒り覚えます。

alterd1953
質問者

お礼

まぁ、日本の場合、多くは葬式仏教になってるようですからね。 キリスト教もルターの頃から腐敗はあったようですが 現代では確かにキリスト教の方が志の高さは感じます。 「赦し」に関しては実際の所、赦すも赦さないもどうしようもないんですけどね。 確かに「憎悪」は毒のように心を蝕みますから無いに越したことは無いです。 しかし、アルキメデスが言ったように 「怒るべき時に怒る人は尊敬される」と言うのは正しいように思いますし 「正しい憎しみ」と言うのもあるのではないかと思います。 ただ、徹頭徹尾、どう行動するかが問われる訳で そこにこそ「暗闇の中の跳躍」があるのだと思います。 要は、人生はバクチの連続ですよね(笑) 「無垢」に関しては、私は答えを持っていません。 何となく、数学のゼロ元のように思わないでも無いですが 数学のように、ゼロを掛ければ全部ゼロに成る訳でも無いですしね。 これもまた「暗闇の中の跳躍」としか言いようが無いでしょう。 ただ、私は、矛盾かも知れませんが「無垢」を抱えたまま スキルをひたすら磨こうとしています。 まだまだ全然なまくらですけどね(笑) キルケゴールは「死に至る病」しか読んでませんが レトリックに相当な矛盾を感じるとは言え 「キリスト教原理主義」とでも言えそうな過激さには激しく共感を覚えました。 恐らく、生温い享楽に溺れる人々に強烈な嫌悪を抱いてたでしょうね。 そう言えば、9.11やシリアの非惨な状況を思えば言うのに憚れますし 決して、テロを肯定しませんが イスラム原理主義者が言う 「この世には虫の羽ほどの価値も無い」と言う言葉は 善良な人々や価値のある文化を除けば正しいようにも思います。 実際、アメリカは日本の5倍の電力を使っているような超浪費国家ですし グローバル企業がますます世界を席巻し 資源が枯渇するにつれて世界で熾烈な争いが起こるかも知れませんね。 そして、代替エネルギーの開発に失敗すれば 原発に頼らざるを得なく、絶対安全と言うのは有り得ないですから いずれ人間が住める場所が段々減って行くのでは無いでしょうか。 まぁ、今生きている人間は先のことなんかどうでも良いみたいですから 別に暗い気持ちにもならないようですが 私は何故か暗澹とした気持ちになります。 そこで話は飛びますが 今まで楽器の練習をして来たのは 「楽器の上で自由になる」為でしたが ますます現実に対する無力感を深めるに従って 楽器を演奏することは私にとって「祈り」に近い行為なのだと思うようになりました。 特定の宗教を信じない私は神に感謝出来ませんが 今まで音楽を伝承してくれた先人達には心からの感謝を捧げます。 ではまた(笑)

noname#202494
noname#202494
回答No.25

私、月曜日はひまひまなのです。 また、散文になります。 私の考える神と人間の関係、というのは、象と蟻のようなものです。水を飲みにゆこうと、池まで移動するんですが、その目的を達成するためには、無数の蟻を踏み潰してしまうんですね。そんなイメージです。 宗教と人間について:キリスト教に帰依したからといって、人間が上等になるわけではなく、おろかな人間は、おろかなままです。帰依している私が言うのだから本当です。愚かな上に”偽善者”となる可能性が高いです。 根っから暴力的で犯罪をするために生まれてきたような人間を許す心情について:これは、自分がその局面に直面しないと、他人を見て、その心理を想像しても、結局”わからない”としか、言いようがありません。ただ、人を憎み続けるには、大変なエネルギーが必要で、赦した、と、公言することで、”楽になる”ことはありえます。 私の一番好きなのは、ルツ記です。主人公のルツが自分の人生に重なるからです。異邦人の嫁の話!旧約の中には、普通の人を主人公にした、ルツ・エステル・ヨブ・ヨナ記があって、alterdさんなら、ヨナ記がお好きかも、と思い、それで、もう一度回答する気になりました。三日間、鯨のおなかの中で過ごしたおっさんです。ヨブは、日本人の方には、”理屈に合わない”と、よく議論の対象になります。エステルは、賢いお后のお話です。 最後に、私は、勉強のできない人が理解できませんでした。単に怠け者であるせいだ、と思っていました。それで、長男に勉強の大嫌いな男の子が授かったんだと思います。私が代わりに学校に行って勉強してあげたいぐらいでした。最終的には決裂しますが、最近は、ようやく、そういう人もいるんだ、怠けているわけじゃないんだ、と、この齢になって、優しい気持ちになることができました。 偉そうにいえる私ではないのですが、alterdさんの心の中にある、厳しかったご自分への後悔が、いつの日か、形が変わるよう、祈っております。

alterd1953
質問者

お礼

こういう真面目な話、特に聖書に関する話をする機会はあまりありませんので 有難いです。 散文、大いに結構です(笑) 象と蟻ですか。 般若心経の「空即是色」を思い出しました。 あの「空」が、この世の全てを司っている原理を表わしていて それを人間は決して知ることは出来ないのだということを知って納得しました。 後、旧約にも興味深い話があるんですね。 今、ネヘミア記ですのでルツ記は当然読んでいるのですが 印象に残ってませんので、また読んでみます。 それと、少なくとも子供の頃は、私も勉強が出来る方でしたが 何故か、出来ない人が怠けているとは思いませんでした。 まぁ、出来る人でも、英語が出来ても数学はダメだったりしますしね。 多分、脳の活発な部分が人によってバラツキがあるのでしょう。 ですので、その人の長所を伸ばすことが1番であり 社会では適材適所に尽きると思います。 後、子供の事では、すでにご利益がありました。 新入社員に辛抱強く仕事を教えたら半年後に一部分ですが先輩を抜いてくれました(笑) それまでも、出会った人には、取り合えず最初はちゃんと向き合うようにして来ましたが それに、強い愛情が加われば最強ですね。 ではまた(笑)

回答No.24

 こんばんは、昨晩は事情も知らず失礼しました。 私のサッカー質問にもNoName#回答が有り、訳解らなかったのですが、成る程あれは捨てIDですか。姑息で卑怯なやり方ですね。 不快な事にはトコトン戦えば良いと私も思います。 私は人格者でも平和主義でもないですが根がマヌケなのか、もう面倒くさいので放っといてるだけです(笑)。  本題ですが、キリスト教的「赦し」について少し、。 大分前、TBSでPバラカンがやっていたCBS60ミヌエッツで見たのですが、犯罪被害遺族のうら若いクリスチャンの米白人女性が法廷で、加害者の黒人青年と対面してその殺人の罪を赦すのです。 その青年は死刑覚悟だったらしいですがその時、何で赦されるのかが全く理解できず怪訝な顔付き、と言うより何かに怯えたように慄くのです。 私はその事に慄きました。   キリスト教的、無償の愛の贈与? 贈与の一撃、。 無償の贈与は、却って相手に負債を与えると言います。返済の義務感、経済に慣れ親しんでる人間には理解しがたい交換価値形態、。キリストの根幹に関わる事でしょうか? 前回答者様も仰るような、自身の命の、全人類への贈与でしょうか? 無償の愛という事に私も強烈に惹かれますが、一抹の疑念も常に付き纏います。 それに関して参照してるのが、前に御紹介しましたか? ファニー&ジル・ドゥルーズ、情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む (ポストモダン叢書)の ~ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」という序文です。 http://ameblo.jp/le-corps-sans-organes/entry-11472946905.html この方が良く纏め紹介為さってます。 特に奥様のファニーは、キリストを称揚しながらも正にその可能性の中心に、愛の宗教が裁きと審判の宗教に変節してしまう原因が潜んでいると看做してます。 まあ旧約端折ってマタイ伝と合わせて読んで頂くと嬉しいです、薄い本ですから。 元より聖書は書かれた時代も様々の寄せ集めで順番大系的ではないようですから構わないのではないでしょうか? キリスト教に少し疑念が有る方には、かなり説得力のある本です。又それによってキリストが貶められる物でも御座いません。却ってその教えを鍛え上げ力強くするヒントが有ると考えてます。 では、。 

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) ひょっとして、どんなに合わなそうな人とでも交われと言われるのかと 心配していましたが、分かって頂けてホッとしました。 ご紹介の本は確かに興味深いです。 キリストの意思が歪められて伝えられたのなら 十字軍等、私の疑問も氷解します。 そして、私もアーミッシュの村の子供が殺された時に アーミッシュの村人が即座に犯人を許す声明を出しましたが 軽いショックを受けました。 恐らく、筋金入りのキリスト教徒なんでしょうね。 但し、例え僅かでも人間性の残っている場合は 悔い改める可能性もあるかと思いますが 私が納得行かないのは 統計的に25人に1人ぐらいは全く良心を持たない人間もいるらしい事なのです。 それどころか、少女を殺して性的快感を得るような邪悪極まりない人間もいるようです。 勿論、彼らも好きこのんでそんな人間に生まれた訳ではないでしょうが 果たして、彼らを許す意味があるでしょうか? 私には、到底出来ません。 まぁ、犯人を死刑にしても被害者が生き返ってくるわけではありませんが 罪の無い人が無残に殺されて、罪の意識も無く被害者をいたぶって殺した犯人を 税金でのうのうと生かしてやることに強い怒りを覚えます。 ただ、この問題は社会の大勢の意見に従うしかありませんが。 ともかく、すでに、この質問を立てた甲斐は十二分にありました。 ご回答ありがとうございました。

noname#202494
noname#202494
回答No.23

蛇足です。 聖書の読み方ですが、最初から最後まで、小説を読むように、何度もお読みになる方も、いるにはいます。でもごく少数です。私が、通読したのは、教会で、聖書学のPhDをお持ちの牧師さんが、一週間に”ここからここまで”と宿題を出して、一年間かかって、読み終わった、一度だけです。 一般にキリスト教では、旧約は新約の大きな影である。新約が光であって、その光源はイエス・キリストである、ということになっていまして。ですから、教えの中核である”山上の説教”の含まれる、マタイ伝と、パウロの書簡の中でも、”ローマ人への手紙”あたりから、サッサと読み始められると、西洋の小説をお読みになるときの糧になると思います。 特に、ローマ人の手紙の中では、”同性愛は罪である”とあります。しかしながら、そのすぐあとの章に、”弾劾するのは神であり、人間の仕事ではない”という文言があるのですが、歴史を見る限り、最初の”罪である”しか、読んでいないんじゃないかしら、と思われる成り行きでした。 二つ目には、たとえ話で説教をしてゆくのには、それなりの理由があるように思われます。いかなる時代の、いかなる状況にも、応用できるゆとりが、たとえ話の形式の中にはあり、決して時代遅れにならないことです。 三つ目に、私がイエス・キリストを心服するのは、彼が、人間を一度に一人ずつ、直していったためです。彼は、国家のことを達成しに下界に下りてきたわけではなく、一人ひとりの心の救済のためにやってきたしるしでしょう。 Being niceであることが愛ではないと考えます。あるときには、説教でしょうし、厳しい行いであるかもしれません。その人のために、貴重な時間を割いて対応することが、私にとっては愛になります。

alterd1953
質問者

お礼

私は、何事も基礎からきっちりやらないと気が済まないタチなんですが やはり新約から読んだ方が理解が早そうですね。 キリストに関しては現代のカウンセラーのような存在だったのかと言う印象です。 それも飛び切り有能で厳しい。 愛に関しては、私も勿論「ハイハイ」と何でも言うことを聞くようなのは レベルの低い愛であって 相手の成長を願って、時に、厳しいことを言うのが本物の愛だとは考えます。 しかし、子供に厳しくし過ぎて性格を委縮させてしまった経緯のある私としましては 例え、本物の愛が動機であっても、具体的に、どう接するかは 非常にデリケートな問題であると考えざるを得ません。 ともあれ、貴重な補足ありがとうございました。

回答No.22

「世界を愛する者は、隣国を憎む。」 今晩は、オリジナルは「・・、隣人を憎む。」 ドストエフスキーのカラマーゾフ兄弟でしたか? これもショックでした、博愛主義者の陥穽、確かに思い当たります。 隣人は時に疎ましいものですね。でもいざと言う時最も頼りにすべき存在、阪神震災の時、長田区の婆さまがいみじくも述懐してました。  隣人愛;キリスト教で最重要の倫理だと思います。仏教でも「袖触れ合うは他生の縁」、電車に乗った時、敵か味方かも判らない見ず知らずの隣の人の温もり、鬱陶しい人も居るでしょうが私は、まさに同胞愛を感じます、そこで何か有ったら助けてしまう、それが人間の条件。大抵の人は今でもそうですね。その事は若い人に伝えなければならない。  さてそこで前回の続き、隣人・隣国を愛せるでしょうか? トラブル続いたら無理ですね。 しかし思い出すのは戦場、のアリア、ピアニスト?、センメリ、。「戦場のアリア」だったか、ナチスと連合国軍の休戦の日のフットボール、日露戦での握手、。 愛す事はできなくともそこに、気付けば愛は流れてるんですね。 戦士の友愛。 これは私の少ない路上ファイトでも実証済みです。敵を思いやって戦う事! そうすればそんなに酷い事にはならない。当時××と呼ばれた朝鮮高生との抗争でも、後になって何となく友情みたいなの互いに感じたもんです。 現在勇ましいだけの輩はその友愛が判ってない。これは戦場では使い物になりません、憎しみで戦う輩は筋肉硬直して体震わすだけですから。 山本五十六司令や、硫黄島の栗原中将は留学してた英米を憎んでませんから、友愛を持って戦ったのでは? その意味で、愛敵・好敵、と言う概念は実に重要です。敵に塩の謙信公  All We need is enemy with LOVE これがレノン・Bマーリーへの、私のささやかな回答です。生物進化では、好敵手が無いとEvolution有りません。私が2千5百年考えて来た途中報告です(笑)。  敵を排除しない。公園とは誰もが訪れられるべき場所。主様も十分ホスピタリテを示してこられました。ですから回答No14が消えたのは少し残念でした。経緯は知りませんが、こちらのプロフィール拝見し、殆ど同意ですし、私も明らかに犯罪幇助的な人ブロック一件してますが、あの回答への評価の数の多さを見ると、尋常ではないと思いました。これはやはりお題に関連してる事なので、私も覚悟で意見述べてます。少なくとも以前こちらで消された鶴亀翁は御意見正論ながら、何の誤解か御気の毒だと思います。少し転換するべき時かもしれません。  パーカションとは何でしょう? 物と物がぶつかる音。撥・スティック・マレット、、其々音は変りますね、良い音・悪い音、組合せ次第。それで音が変るのは、その音はシンバル・太鼓の方にも、撥などの方にも属して無いからでしょう。ぶつかり合う二つの物体の間に流れるモノ!  「愛」と言うのもそのような現象ではないでしょうか?! 敵対してようがあいしあってようが、。 美しく響かせるには、それなりの技術・闘争のエチカが必要です。 長々偉そうですが、私のドグマだけでなく、賢者達の叡智ですので(笑)悪しからず。 もうあまり言えるマシン状態ではありませんので。  親や家族に恵まれない人達も多くいますので、敢えてそれ以外の横断的友愛を語りましたが、でもその大いなる愛に気付くのも、始まりはカップルの愛からですね。 <愛によって「一つ」になる事は、国家の夢。 個人Indivisualの夢は、二人あるいは複数である事。(出典不明>二人は一致してる必要もなく、ただ二人である、。何か音や電流のようなモノが、間に通ってゆくのでしょう。

alterd1953
質問者

お礼

>「世界を愛する者は、隣国を憎む。」 ちょっとニュアンスが違うかもしれませんが 世界レベルで自分が正しいと思い込んでいる人間が 最悪の存在になる事があると言う意味ならそうかもしれませんね。 また、単純な二元論を取りたくはありませんが 大きく分けて、いわゆる武士の情けのような高い心を持つ人もいれば 徹底的に敵を凌辱する卑しい人間もいると思います。 さて、No,14の回答の件ですが 私は僅かな意見の違いではブロックはしません。 上手く例は挙げられませんがそれが根本的だと思われる時です。 ただ、私は突き詰めると超少数派ですので、どうしても合わない相手が多数になってしまいます。 今まで、散々、色々な場所で議論して来ましたが生産的な結論に至ることはほとんど無く 物凄く不快な後味が残るのみでした。 そして、いつも、強固な壁を感じるのです。 marc2bolantiさんのオープンな姿勢は美点ではあると思いますが 残念ながら私には出来ません。 それと、わざわざ捨てIDを作ってまで文句だけ言いに来る人や ブロックされた人間の質問をいちいち読んで まるでリンチのように参考になったを押す人達をブロックしていたのは 正解だったのではないかと思います。 後、プロフィールには書いてませんが 私が最も嫌うのは、他所では善人のように振舞っている人が 他では悪意のある回答をするような人です。 とまぁ、いくら言っても、私を度量の極めて狭い人間だと思われるでしょうね。 しかし、残念ながら、この強烈な嫌悪感は自分でもどうしようもないのです。

noname#231734
noname#231734
回答No.21

すみません、もうひとつお願いします。 前の回答ではこんなことを書くのは 恥ずかしいような気がして 書かなかったのですが、 本当は親の愛情を一番に思いました。 うちの両親は家庭の事情で高校も出ていないし、 若くして結婚して頼れる親もなく、 暮らしを立てるのは楽ではなかったと思います。 でも両親から愚痴らしきことは一度も聞いた事はありません。 私は精一杯のことをしてもらったと思っています。 文章に出来てすっきりしました! ありがとうございました。

alterd1953
質問者

お礼

おお。 親への感謝を言うのは照れ臭いですもんね(笑) 親になって分かりましたけど 子供への愛情ほど強烈で純粋なものは、そうそう無いですね。 再度のご回答ありがとうございました。

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