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教えることは許されないのか

全ての教育と全ての育成において「諭す」ことと、自発を促すこといわゆる「励ます」以外 他人がしてあげられることってありますか? 条件として ・未熟な側の人に「上からものを言うな」と絶対に言われないこと。  現代日本では明らかな上位者でも上からものを言うことは絶対悪であるらしい。 ・「強制?」「個人の自由だろ」と絶対に言われないこと。  自分が決定したこと以外のことは余計なお世話であり、人権蹂躙だそうです。 いわゆるお客様扱い以外が許されないような気がしますけれどもどうですか?

みんなの回答

noname#194996
noname#194996
回答No.13

私自身は教育者ではありませんが、そういった立場に立ったこともありますし、そういった乏しい経験からも教師というのはなかなか難しいものだと実感できます。未熟ではあっても一個の人格の精神を動かさねばならない立場で、単なる事務的な商行為ではないのですから当然かもしれませんが。 教育の基本はやはり上から権威を持ってやらなければ出来ないことです。理想はなんとでもいえますが人間対人間という図式の中で、いかにのりをもって遂行していくか、そのためには最低限のポピュリズムも必要になってくると思います。義務教育時代に私が経験した人気のある教師は皆ユーもアがあって好かれていました。 おっしゃる未熟な精神の人間をいかに自分の側に引き込むか、それを単純な理屈で考えるから向こうの貧しい論理に乱されてこのような異様な質問になるのではないでしょうか。 未熟でもワルでも一個の人間だから切り捨てられないのは確かですが、それにたいして毅然と出来ないのが問題です。彼らは少数派ですから多数が自分の側についてくれるはずだという自信があれば解決するはずです。学級崩壊はやはりなんと言っても教師の力不足だろうと感じます。プロ意識を持って対処するべきでしょう。 ご参考の一端になれば。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私が過去遭遇した未熟やワルの中に極めて特殊な人がいました。 倫理や道徳についていざ踏みにじるときになんら呵責と言いますかためらいと言いますか そういうのが全くない人がいました。 なんか似てるんですよ。日常の中でこうあからさまな倫理観の奇形を見せられると ぎょっとするわけです。 それに直面した時おっしゃるように「溶け込み」や「徹底した理解」や「許し」が功を奏する のかもしれません。

  • ai-aou
  • ベストアンサー率24% (33/136)
回答No.12

子供の良き理解者であり 温かい観察者であり 冷静な情報提供者であり 信じられる仲間である という在り方をおすすめします。これは、教育現場だけではなく、全ての人間関係を円滑にします。 上目線という誤解を受けたくないのであれば、まず相手の感じ方を一度引き受けて尊重してから、自分の意見を言う事です。でないと、支配的に取られたり、パワーゲームになる可能性もあるから。相手を理解する事は、自分の自己評価を高める行為でもあります。豊かな人生を応援します。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私の今回の質問の場合非難を避けたいのではなく、そういう非難をする人達 にどう接すれば「教育」や「指導」が遂行できるのかということです。 ai-aouさんのおっしゃることも一つなのですが、発露は誤解なきよう。 また未熟である者に常識的な範囲で上からものを言う、ことが口に出して訴えるほど 「気に障る」と感じる人間が実際にいて増えていることは恐ろしい状態だと思います。

回答No.11

 いやあ・・・今日の私も同じような体験しました。  私の場合、その彼が(学習上)狭い世界で閉じこもっているので、自分の未熟さに危機感がない、唯一の批判者である私をいい負かせばひと時の平穏が訪れる、という態度なのに困っています。「どうせ怒ったって理解して貰えないだろうし、熟練した先生ならもう少し上手く諭すんだろうなあ」と頭の片隅で思いながらブチ切れてました・・・。ないとはいえ不安はあるようなので、そこから危機感を持ってもらおうかと画策中でありますが。  質問者さんの場合は、適度に難しい課題を与えて(選んでもらって、というのが望ましい)、彼/彼女のプライドをぐらつかせて、教えを請うように体質改善するのが一番なような気がします。経験を積めば、相手の許容能力を見積もった上で、緩急取り混ぜての指導もできるようになると思いますが。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 教育や指導を受ける側者に「受けたいと思わせないのは指導する側の責任」とまで言わせる 惨めな教育や道徳はどこから来るのでしょう。 受ける者の未来に必要なのか、指導する側の今日の糧の為に必要なのか、そんな視点だけで しか「教育」「指導」を見られない人が多くて、またそんなところで「へっ教育者風情が。 綺麗事抜かしたとこでメシのためだろ」なんて言ったりするわけです。 根本的には・・ そもそも上とか下ではなく意識が、「乞う姿勢」でなければ「教育」や「指導」はスムーズ に進まないということくらいはわきまえる「しつけ」が幼いころから必要なのかと思います。 最後の三行読んでいてふと宗教めいた言葉が浮かびました。「許し」・・・。 まっ次に浮かんだのが「調子づく」ですから・・。だめかぁ。

  • toshipee
  • ベストアンサー率10% (725/7148)
回答No.9

公平という意味でも間違っている。それと、現場=子供たちはそんなに荒れてはいない。荒れているのはつがいを保てない親。父親と母親にちゃんと育てられていない者は、やはり父性母性を含んだ教育がいる。ただ、それをうまく持って行けるプロ性のない、勉強だけしかしてこず、友達がいなかった者が、したこともない「仲良くしましょう」と無理をしていることに少々先生側が育つにも時間がかかるようになっていると言うことだ。

Danchick
質問者

補足

ややおっしゃってる内容が破綻しかけているようにお見受けします。 「平等」「公平」の言葉の使い方、意味合いは間違っていないと思うのですが・・・。 「公平という意味でも」の「でも」はどういうことなのでしょうか。「公平」という言葉を使って 表した何かが「公平」以外のものも包含しているので「公平」では表現し切れていないということ なのでしょうか。はっきり言ってなんのこっちゃか・・・。 hunaskinさんという方がここに回答をくれていました。私とお礼や補足を通じてやりとりをして いる最中であったのですがいつの間にか削除されてしまいました。(欠番のところ)好ましくない言葉 や公序良俗に反する具体的な単語なんか使っていません。真剣に一語一語選んで書いた文が断りも無く 削除されました。(思い出したら腹立ってきたww) そこへの回答や補足で一度訥々と書かせて頂いていたことで、非常に面倒だったのでここは簡単に。 つまりは現実に「荒れた」事例が存在したのでこういう質問をさせて頂いているのです。「そんなに」とか 「全員が」とかの多い少ないの話しではなく、少数であるにしてもこのケースの人と直面しなければ いけない現実の話であって、そうなったときどうする?ということです。 そして本当に申し訳ないのですが、終わりから三行の文章はどう読んでどう推測しても主張されている ことが理解できませんでした。最も要約すると「友達がいなかった者」が「無理をしている」ことは 分りますが、その後がわかりません。「友達がいなかった者」が「無理をしていることに」「時間が かかるようになっている」とは・・・。すみません言い違いや言葉の使い方の間違いなどもいろいろ 想像してみたり、細かい単語は無視してでも字面の印象だけで主旨だけを汲んでみようとしたのですが 本当に意味がわかりませんでした。すみません。

  • JqqF
  • ベストアンサー率24% (159/656)
回答No.8

ご自分の同類の者とのみ仲良くしたいのであれば、教育の現場では無く、サークルに所属するのがよろしい。 教育の現場とは、そこにいる者同士が無条件に知識を共有することを約束する現場です。 あなた側だけに知識があると前提するから、子弟に対し憤りを思うのです。何の根拠で、相手にひれ伏すことを要求するのか?

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 はっきり申し上げてこの回答をどう解釈してよいのか分りません。 ただ「教育」や「指導」の場で教師や指導者にいかにもな理屈を並べ立て、「対等」を求める 新人や未熟なものの存在をどう考えるかお聞きしたかったのです。 悪戯にひれ伏すことを良しとしているわけではありません。

noname#204885
noname#204885
回答No.7

京都大学数学科教授だった森毅が、次のようなことを言ってました。 「教育で生徒を教え諭し、高みに登らせようなどと言うのは、教育者の傲慢である。教育者が、実際にできることは、せいぜい生徒にチャンスを与える程度のものでしかない。」 ここまで割りきってしまうのもどうかと言う人もいるかもしれませんが、所詮、勉学は、最後は自らの力でおこなうもの。 「お客様」になるかならないかは、生徒の方が決めることだと達観するのも、また一法かと思います。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 他の方の回答にもありましたが、きっかけと気付きがあれば人は進んでいくものであって それを与えるのが先を行く者の役目で、あとは逸れないよう、滞らぬよう流れを作ってやれば いいだけなのかもしれませんね。 飽くまでも理想ですが。 大きな道の前では質問のような事態は問題ではないということなのかしら。

  • toshipee
  • ベストアンサー率10% (725/7148)
回答No.5

では、君は幼稚園児に敬語なんだね?戦えない者は現場では要らないんだよ。今の現場は堂々と、金が続かなきゃ除籍だし、金払ってても、周りに示しがつかないなら、停学なくても退学勧告してるよ。なんたって、受け皿=フリースクール・単位制満載だからね。

Danchick
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 お金を実際に払っているとかそこに所属している意味(学校では学位・資格、会社では収入や地位)が 保証されないよ、とかそういう顕現した要素のことでムキになられても些か困ります。 指導なり教育なり受ける側の態度に意図した悪意が混じってますよ悪い風潮広まってませんか ということですから。 再度回答くださってこの後も誤解されたまま腹立たしく過ごされても気の毒ですので申し上げます。 「平等」について言葉がどういう意味であるか私の考えを申し上げたところ、それにパッと反応された わけですよね。「平等」とは条件に関係なく同じ扱いをすることと言ったら、「じゃ幼稚園児にも・・・」と。 それは「平等」ではなく「公平」ですよと言いたかっただけです、遍く人類に敬語を使いなさいということ ではありません。

  • kaxuma119
  • ベストアンサー率29% (108/363)
回答No.4

「知」「理」「技」への誘惑です。 知性を身につけるとことことがいかに素晴らしいか、理性を自分のものにするとこがどれほど輝かしいことなのか,技術を体得し活用できることがいかに感謝されるものなのかを、指導的立場にある人(教師や親・親類・コミュニティの大人)が語るのではなく、自らがモデルとなって示すことです。 「あのような知性やあふれる大人になりたい」「あの理性を得てはじめて見える世界を見たい」「あの技術でもって世界を驚かせたい」と子供たちに思わせること、すなわち「知」「理」「技」への誘惑こそが教育する者がほんとうはやらなくてはならないことです。 なにも高学歴の話をしているのではありません。自分の職業と自分の仕事に誠実に向き合い成果を積み上げていく、他人の成果を素直に認めることができる大人になり、その背中を子供たちに示すことです。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自らがモデルとなって示すこと まさしくその通りなのでしょう。ああいう風になりたい、あの知識が欲しい、と思ってもらえれば 指導者としてこれ以上のことは無いと思います。諭すことと励ますことを合わせれば啓発するということ となるのでしょうがそれが成功すれば質問のような程度の低い問題はスッと飛び越えられてしまって 起こることすら無いのでしょうね。

  • JqqF
  • ベストアンサー率24% (159/656)
回答No.3

何故、教育、育成に付き物の反発や反抗を避けたいのか?引き受けるべきでしょう。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私個人で思うのは身勝手で理不尽な主張を「人権」などと組み合わせてニタニタしながら 意図的にする行為は問答無用で懲罰、排除の対象にしても良いと考えます。 無意識にそう考えた新人や新入生なら話しが出来ますが、意図的なものですから説得とか 合意とか最初から出来無いただの妨害行為です。 未熟とか未経験、故の問題とは違うと考えます。

  • toshipee
  • ベストアンサー率10% (725/7148)
回答No.2

 上からモノを言えるプロの技量があればいいのです。子供たちは最初は突っかかっても、バカではありませんから、ちゃんと育っていれば学びます。  教える技量が上のプロは立場が上です。これが崩れたら何もできません。平等とは同じに扱うのではなく、年齢・経験を認めて、教えを請うときは敬うのが平等です。

Danchick
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おっしゃる通りですね。その通りなんですけれども、その「何もできません」が起こっていませんか? 指導行為自体が「上から」らしいのです。立場や技量経験は無関係で「言い方」が馬鹿にしている ということになるらしいですよ。 極々普通の人は教えてもらうことが一番の近道なのでそんなことはしませんけれどもね。 それと私見ながら「平等」は同じに扱うことだと思います。

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