地震が来るか来ないかは別として、たとえば巨大津波が来たとしても、町が今回のような被害を受けても最小限に食い止めることが出来るように・・・と、そういう町の構造にしようと、そう前向きに投資することについては理解できます。
いざ津波が来ても被害を最小限に食い止めよう、と考えることは、そこでこれからも生きていこう、前向きに発展させよう、という意思の表れであるからです。
PTSD(トラウマ)もありますから、一度被災した人に、また同じ場所に住め、というのはいささか相手の心情を無視した乱暴な表現かもしれませんが、津波で破壊された・・・とはいえ、敷地が更地になったも同様であるわけですから、そこにまた新しい街づくりをしていこう、と考える方が、一度被害を受けたから、そこにはもう二度と住まわないようにしよう、と考えるより、よほど合理的だと思います。
仮にトラウマ的なもの以外が原因でそう考える人がいたとして、ではその人が高台に移動しました、移動した場所が山崩れをして住めなくなりました、とすると、ではその人は、「また山が崩れるといけないから、もう二度と山には住むまい」と思うでしょうか。
新しい家を建てました、家が火災で燃えてしまいました。どなたかが亡くなったとして、もう二度と新しい家を建てることはせまい、と思うでしょうか。
列車に乗りました、脱線事故を起こしました、ではもう二度と列車には乗るまい、と思うでしょうか。
あれほどの大きな津波に襲われる確率より、たとえば飛行機に乗っていて飛行機が落ちる確率とか、列車に乗っていて事故にあう確率、道路を歩いていて歩道に車が突っ込んでくる確率など、自分が原因でない自由で災害に巻き込まれる確率は再びあのような巨大津波に襲われる確率より、よほど大きいと思います。
台風が近づけば家屋が吹き飛ばされたり、河川が氾濫して洪水に巻き込まれたりすることだってあります。
二度と災害に巻き込まれないようにと、知恵を使うことは大切かもしれませんが、災害に巻き込まれることを恐れて、文化的な営みを行うことを止めてしまうことは、とても愚かなことだと思います。
「なぜ東北人は、関西人のような合理的判断ができないのでしょうか」
とありますが、これはきっと東北人に限ったことではないと思います。
「羹に懲りて膾をふく」という言葉があります。
一度大変な思いをすると、それまでの営みそのものを否定して、全く逆のやり方を行ってしまう・・・。
マスコミによる影響も大きいでしょうが、本来人間とは、それほどに愚かなものだということではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 まったくその通りだと思います。 >羹に懲りて膾をふく 本当にそんなことをしていると見えます。 思考停止しているとしか思えません。 このままでは日本はダメな国になります。 何とかなってほしいものです。