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皆さんの旅先でのアクシデント教えてください
こんにちは 先日家族旅行に行ったのですが、テントが壊れるわ、食事は食べ損ねるわ、旅館にエアコンがないわ、捻挫するわ、などなど散々な目に合いました。ほかにも言い切れないほどいろいろあって、最後はもう笑ってしまいましたけれど、こんな事は初めてでびっくりです。 トラベルはトラブルが語源だと聞いた事がありますが、みなさんの旅先での思いで深いアクシデントを教えてください。
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- KanemotoKnetou
- ベストアンサー率16% (21/127)
こん**わ お金が無くなっちゃった事が有りました。財布を落としたとかではなく… 当時、キャッシュカードが漸く普及したころでした。 旅に出る前、財布の中身がやや淋しい状態でしたが、向こうで下ろせばいいや(^-^*)とそのまま出かけて…。 ホテルで教えてもらったキャッシュコーナーでカードを入れたら「お取り扱い出来ません」 (◎o◎) もう一度ホテルに戻って別の銀行を教えて頂き試しても「お取り扱い出来ません」 (°□°;) 結局五カ所(だったかな…)回っても全て「お取り扱い出来ません」\(^ー^)/ 帰りの電車賃を残すと、お土産はおろか、ご飯代も残りませんでした。 当然、空きっ腹を抱えて帰ってきました(┳◇┳) まだまだ銀行間のネットワークが充分で無かった時代だった頃こそのトラブルでした… 枝垂れ桜の名所に花見に行く計画を立てて友人と車で出掛けたら… 異常気象の年で、えらく早く桜は満開、今度は大雪… 雪に覆われた枝垂れ葉桜(柳ですなぁ…)というのは有る意味トラブルではなくラッキーだったのかなぁ…。 そういえば、エアコンの調子が悪く、ガラスの曇りが全く取れなくて、仕舞いには雪の舞う中、窓ガラスを開けて走りましたねぇ…。今思い出しても寒いです。
- wellow
- ベストアンサー率46% (892/1932)
ビロード革命から1年弱、共産主義が終わって混乱しているチェコに行った際、定例の秘密警察の尾行が付きました。 体制が崩壊して有能な人が抜けたのでしょう。尾行の制度も何となく残ってしまっていて、有能でない人が何となくやっているという感じでした。 尾行を撒いてホテルに戻ると、心配そうに見ている秘密警察職員がいました。背後から近づいて肩を叩くと、面識がないはずなのに「どこに行ってたんだ。心配したんだぞ」と下手な英語で優しいお言葉。 次の日、観光していると闇両替屋の勧誘を受けました。レートは良いのですが、闇両替商が持っていた札はポーランドのズロチ。チェコ・コルナの1/25ぐらいのものでした。「ズロチならいらないよ」と見抜くと、絡まれました。口笛をピッと吹くと、秘密警察の人が闇両替商に「お前、変なことしてると捕まえるぞ」と説教してくれました。国が無料のボディガードをつけてくれたようなものです。 尾行中は食事に誘っても(奢りだと言っても)、来ませんでしたが、ホテルに戻る前に駅のスタンドでビールを呑むと横に立って呑んでいました。まとめて払うと、慣れないドイツ語で「ダンケ」と言っていました。「スパシーボ」と返すと笑っていました。 トラブルとは逆の、安全な良い思いでです。
- paan
- ベストアンサー率7% (37/477)
一人で北海道旅行に行きました。 帰りの飛行機のチケットが「札幌空港」となっていたので「丘珠空港」と思っていました。 札幌市内でタクシーに乗り 私「丘珠空港まで」 タ「丘珠からどこに行かれるんですか?」 私「羽田です」 タ「え?丘珠から羽田は行きませんよ」 私「え?」 タ「滑走路が短いからジェット機は飛ばないんですよ」 私「え?でもチケットに札幌空港って」 タ「これは千歳空港だね~、あそこは滑走路長いから」 私「間に合いますかね~?」 タ「乗せる前に判れば断ったけど、乗せちゃったからね~、ちょっと飛ばすよ」 私「お願いします」 で飛行機の時間に間に合いました。 ほんと「家に着くまでが旅行」です。
- madausa
- ベストアンサー率28% (320/1133)
ドイツで警察のふりをした詐欺師に絡まれました。危うく金銭や手荷物を取られるところでしたが、路地に連れ込まれるのを見ていたヤクザみたいなおじさんが割って入って詐欺師を追っ払ってくれました。 ドイツは治安がいいと思って侮っていました。でも助けてくれる現地人がいるってことはやっぱり治安がいいってことですね。
こんにちは。 家族で、県外の従兄弟の家に泊まりに行った時ですが… 帰りに、まだ2歳前の弟と父がガソリンを入れに行っている間に母と私は帰宅の用意をしていたらガソリンスタンドに居る父から電話があり…「○○○が(弟の名前)内側からロックしてしまって車に乗れなくなって硝子を割って鍵を開けたから…硝子を入れて貰ってからじゃないと…帰宅出来なくなったよ…」と(;´∀`) しばらくの間、母と私は待たされ、帰宅時間が大幅に遅れましたが…弟は、まだ何も分からない年だったので帰宅の車の中でも「キャッキャッ(≧∇≦)/」と、ずーと騒いでいた記憶が…。 父も母も私も待ちくたびれて…ぐったりだったのにぃ…(T▽T)
>みなさんの旅先での思いで深いアクシデントを教えてください。 昔々、チベットからネパールへヒッチハイクで抜けた時の話ですが、 ネパール国境を越えた途端に、数カ所で山が崩落して、 一つの山を歩いて越すのに1日、もう一つの山を越すのに1日。 道があれば、バスで1時間程度のところを2日ほどかけて 歩いたことかな。 極乾燥のチベット高原から、熱帯雨林のようなネパールに 降りてきたので、空気の濃さと、赤ん坊が下半身すっぽんぽんで そらいらへんでおしっこやらうんこやらを自由に する姿のほうがショックと言えばショックでしたが。
- Jonny_desu
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結婚前に今の妻と北海道旅行に行った際、帰りの千歳空港で飛行機のチケットがないことに気づき、ホテルに連絡すると部屋のテレビの上にのせてあったとのこと。 とりあえず、正規の料金で搭乗し、後日払い戻しをしてもらい事なきを得ましたが、その時は「この娘と結婚して大丈夫だろうか?」とかすかな不安が頭をよぎりました(笑) 結婚後も、キャンプに行って気がついてみれば、服を入れたカバンを忘れて行ったとか、逆に食材を入れたカバンを忘れて行ったとか、トラブルと言うよりポカというようなアクシデントには事欠きません。
- image123
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アメリカ夜発のヒコー機でメキシコ深夜着で。アメリカではパスポートちゃんともっていたのに、メキシコの入管のところではなし。あれにはあわててしまいました。よその国に入ったあとなら、パスポートの再発行ですが、よその国を出てよその国に入る前。 その少し前、ヒコー場に住みつく外国人の映画をみていたので、わが身にふりかかったようでした。何しろ、自分を証明するものは何もなし。乗客のすべてが問題なく入国を横目で見ながら、別室行き。 そこで、メキシコの連絡先とか身元引受人の出頭とか。そんなの誰もいないし、たとえいても、深夜。それに、そんな難しいスペイン語なんて出来っこなし。当然、英語どころか、日本語でもやっとこさ。どうなるのか、自分でも想像を遥かに超えた出来事で、もうふんどりかえって、どうにでもしてくれ、って境地。 旅先でパスポートなくしたアホは多くいるんだけど、わたしの場合はそれを輪にかけた「ド」がつくようなドアホもいいとこ。 結果は、入国審査のおじさんが身元引受人になってくれ、仮入国許可を出してくれて、明け方にホテルに着きました。 それからは、夜中に知らない街に着くヒコー機は絶対に乗りたくなくなっています。夜中に動くのは、ドロボウと売春婦だけや、って爺さんがよく言っていましtが、それを無視して夜中到着をしたバチがあたったと反省しています。 それ以外のトラブルは、むしろ楽しい思い出です。宗教家じゃなし、宗教心もまるっきりなしですけど、何かあったら、御先祖様に対する感謝の気持ちが足りんかった、と思うようになりました。
八年前にヨーロッパを旅してからカナダ アメリカ ニュージーランド という予定で旅行していたころの話です。 パリでの宿泊先を決めずにロンドンから電車で渡ったために 着いたら即ホテル取って観光という予定がガイドブックのホテルが 全て満室・ユースホステルですらです。格安から高級ホテルまで 電話してもです。おかげでホテル取れたのは夕方で観光は翌日という ことがありました。焦ったー。旅行の予定を組み直しですからね。 次ですが、アメリカで風邪を引いて観光がほとんどできなくて ニューヨークの自由の女神を見に行けなかった。
- Dhaulagiri
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乱文な上に超長文になってしまい失礼致します。 シモの話がありますので、苦手な方は読み飛ばし推奨。 私がバックパッカーをやっていた頃の話、心は今も現役ですが。 とある建造物が見たくて、広西チワン族自治区の三江という村を尋ねた時のこと。 桂林を10時頃出発し、中継バスターミナルに到着したのが14時頃、目的地までは2~3時間の行程。 当初はそこで宿泊の予定だったが、ちょうど目的地行きのバスが出るところで、暗くなる前に到着できそうだと踏んで乗り込んだ。 そうしたらそのバスが大ハズレ、変速機が故障しているようで1速と2速しか使わない為、遅々として進まない。 加えて燃料も不足しているようで、下り坂はエンジンカットで燃料節約する始末。 轟音を上げ煙幕の如き排ガスをまき散らし、時にノッキングしながら坂道を上り、下り坂はエンジンカットでトロトロと進む。 ジリジリと日が落ち気温は急激に下がり、隙間だらけの床と閉まらない窓からは身を切るような風が吹き込んでくる。 寒さと振動に耐えること5時間、ようやく目的地に到着。バスの運転手&車掌夫婦の家が招待所らしく、外国人不可であることは判っていたが宿を探す気力が残っていなかったので誘われるまま宿泊。違法招待所にしては高かった。 (招待所:日本だとボロ民宿~安いビジネスホテルみたいなもので、外国人宿泊可の所と不可の所がある。不可の所が外国人を止める場合、かなり割安であることが多い) 部屋に荷物を置き食事に出ようとすると、公安(中国の警察)に見つかると五月蠅いので出るな、飯は作ってやるとのこと。 豚肉入り米線(20元也)を食し部屋に戻って暫くすると、猛烈な吐き気と下痢に襲われ、上下からその日摂取した以上の水分と固形物を垂れ流す始末。 全てを出し切った後、熱が上がり寒気がするが寝具はベッドにタオルケット1枚・・・。 寒さに震えながらまんじりともせず夜を過ごし、翌朝辛うじて動けるようになった。 ダイハツミゼットを究極までボロくして、荷台に無理矢理木製ベンチを置き幌をかぶせた乗り合いタクシーに揺られること1時間、ようやく最初の建造物まで辿り着く。 一通り眺めて写真に収め、内部構造を堪能し終わるや、またもや後門の嬉々じゃない危機。 便所と呼ぶと歴史上のあらゆる便所から泣いて抗議されそうな場所に、大量の蝿と格闘しつつ籠もること1時間、更に奥地の本命建造物まで行く体力と気力は尽き果てていた。昨夜の招待所に泊る気には更々なれず、撤退を決意する。 元の場所に戻るミゼット便が捕まらない為、途中の停留所まで写真を撮りつつ青空のもと下から水分を放出しつつ歩き、停留所でミゼットに乗り、痛む後門を宥めつつ12時頃に三江バスターミナルに到着。 ようやく機能を取り戻しつつある胃袋にパサパサのマントウを押し込みつつ、昨日選択を誤った中継バスターミナルへ向かうバスに乗り込む。 昨日と打って変わって1.5時間で到着、そこから更に桂林まで3時間。まだ明るいうちに桂林に着いて拍子抜けしてしまった。 その晩に食べた揚州炒飯の美味さには、思わず涙が出た。 その後は中国-ベトナム国境で賄賂を集られたり、ハノイで4日間高熱と激しい下痢で寝込んだり、置き引き未遂やかっぱらい未遂に遭ったり、プノンペンまでの砂塵バスで呼吸困難になったり、乗った船が浸水してるような気がしたり乗客総出で水をくみ出したり、深夜にようやく辿り着いたバンコクでタクシーにボられたり、オカマ掏摸グループと丁々発止のやり取りをしたり、ヒマラヤ山中で遭難しかかったりしましたが、概ね平穏な旅でした。
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お礼
みなさん、ビックリ、楽しい(今になってみれば…?)、旅の思いでですね。 たくさんの投稿ありがとうございました。 この場を借りてまとめてお礼させてください