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ローマ帝王 ネロ 文化と歴史
中二です。 歴史の授業で、ローマ帝王のネロの文化と歴史をレポートにまとめなくては、いけないんですが、本で調べても難しくて分かりません。 わかりやすい説明で、教えてください。 なるべく早めにお願いします。
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- kuroneko3
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そういう質問であれば,「歴史」のカテゴリに書いた方が適切な回答が来ると思います。歴史専門の回答者は,基本的に歴史のカテゴリしか見ませんから。 あと,質問の内容自体もよく分かりません。ローマ皇帝ネロというのは,1世紀にローマの皇帝となった人物で,養父の死により16歳で皇帝になったものの,義理の弟,実の母,妻を相次いで殺した上に,キリスト教徒の迫害などと行ったことから,とんでもない暴君として知られていますが,ネロが特に文化的功績を残したとは認識されていません。先生から具体的にどういう内容のレポート課題を出されたかによって書くべきことが変わってきますから,出題の内容を一字一句正確に記した上で質問した方がよいと思います。 なお,文字通り「ローマ帝王ネロの文化と歴史」としか指示されておらず,ローマ皇帝ネロの歴史とその文化的影響について書けというのであれば,とりあえず以下のことを中心に書けばよいと思います。 <歴史> ・皇帝に即位した当初は,慈悲深い名君と言われていた。 ・しかし,権力に執着する母親と次第に対立し,それが原因で義理の弟と母を殺し,さらには妻も別の女性と再婚するため自殺させてしまい,次第に人望を失っていった。ネロは,自分の悪口を言ったというだけで元老院議員を処刑したり,優秀な軍人も謀反の疑いがあると言って殺したりと,次第に残忍な性格となり,それによってますます人望を失っていった。 ・ローマで大火事が発生すると,ネロはローマの復興に努めたが,市街地の跡に巨大な自分用の宮殿を建造しようとしたため,「ネロが火を付けたのだ」と噂された。困ったネロは,キリスト教徒を放火の犯人だと決めつけ,多くのキリスト教徒を残忍な方法で処刑した。 ・最後には,各地で反乱を起こされ,ローマの元老院からも「国家の敵」と宣告されてしまい,逃げ場がなくなって自ら命を絶った。享年30歳。暴君としての評価が一般的だが,隣国パルティアとの外交には成功し死後も感謝されるなど,善政とも無縁というわけではなかった。 <文化> ・ネロは戦車競争の騎手や竪琴の歌手をするのが大好きで,自ら5年に1回の通称「ネロ祭」という祭典を作り,自ら大衆の前で詩を披露し,竪琴を演奏することもあった。しかし,当時のローマ帝国では,芸人は身分の低い人がすることであったため,市民から軽蔑される原因となった。 ・ネロはギリシャの文化が大好きで,自らギリシャへ「武者修行」に出かけたことがある。当時はユダヤ(現在のイスラエル)で大規模な反乱が起きていたものの,そんなことはお構いなしで,オリンピックを始めとするギリシャ各地の有名な祭典を皇帝の命令で開催させ,その全てで自分を「優勝」させた。 ・ネロ自身は,自分をギリシャ文化の発展に寄与した偉大な芸術家であると自負しており,自殺するときには「何と偉大な芸術家が失われることか」などと口走ったと伝えられている。しかし,ネロ祭はネロが自殺すると間もなく廃止され,ネロが造った宮殿も取り壊されてしまったので,後世には悪名だけが残った。 大体こんなところです。ほかにも,中学生に教えるのははばかられるようなご乱行の数々を働いている人なので,詳しいことは自分で調べて下さいと言うしかないのですが・・・。
お礼
ありがとうございます(*^^*) まとめて、みます! 説明不足で、すみませんでした。