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賽の河原について

賽の河原は、親よりも先になくなった 子供が行くところだと、祖母に教えられました。 そこでは親の供養のため、石を積み上げるのですが たまに鬼がやってきてその石を崩し、 また最初から繰り返す…というのを永遠に 繰り返させられる、と聞きました。 そこで疑問に思ったのですが、 親より先に亡くなってる子供が、なぜ親の供養をするのですか?親はまだ生きてるのではないのでしょうか? 生きてる人に供養をする、ということがあるんですか? ご存知の方がおられましたら教えていただきたいです。 よろしくお願い致します。

みんなの回答

  • cyam308
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回答No.3

親に先立って亡くなった子供達の 最大の罪は、 親を悲しませていることです。 簡単にいうと、 親の嘆き、悲しみや苦しみに対して、 供養することが、必要になるのです。 反対に、 この世に残された親が 嘆けば嘆くほど、 悲しめば悲しむほど、 子供の罪は大きくなるのです。 辛いことですが、 嘆きや悲しみから早く立ち直り、 子供さんの冥福を祈ることが、 子供さんの罪を軽くすることになるのだそうですよ。

回答No.2

多様な意味でつかわれている 仏教のことばや、概念はたくさんあって 『供養』もそのひとつかもしれませんね。。 はじめの頃、仏教は、生きている人が死者のために 祈るということは重要視されなかったようです。 あくまで、生きている人が(生前、死後は別として) 仏さまの世界に生きるようになれる、 というのが、もとの考えかただったようです。 時代を経て仏教がひろまった地域の 土着的な考え方がまざったり、 時代時代の思想がくわわったりして いまの『仏教』にたいするとらえかたが できてきたので、これが正しいということは だれにもいえないのですが、 そのようななかで、yu-chinさんの祖母上は 非常に、よいとらえかたをなさっていると、 思います。 というのは、『供養』という言葉は いまは、先祖供養というイメージが先行して 生きている人が『死んだ先祖の成仏ために』 おいのりをしたり、お寺にお供えをしたりする という意味にとらえている人が多いですが、 もともとの仏教の精神からすると、 先祖のためでなく、 ありがたい教えをきかせていただく我々が、 仏さまを供養するという意味が強いと思います。 また、少し煩雑なはなしになりますが、 『往相回向』『還相回向』といって、 人間のほうが、仏さまを供養するというような 思い上がったことではなく、 仏さまのほうが、人間に教えをふりむけて 供養してくださっているのだという考え方も、 浄土系の宗派のなかには、あります。 そのようなことからいうと、 おばあさまが、「先に亡くなった子どもが 親を供養するのだ」と、おっしゃったのは、 子どもをなくしたという悲しみを縁にして 「老少不定(ひとは年の順に死なない)」を悟り、 今生きている人生をたいせつに、有意義に生きようと 親に思ってもらうために、亡くなったこどもたちが 賽の河原で修行しているのだ、ということを 教えたかったのではないでしょうか。 子どもをなくすという悲痛な思いを、 ただ嘆くだけでなく、先に逝ったこどもが 生きている親を仏さまの道に導いてくれているのだ そういう深い心をもって、上記の伝説を つたえられたのではないかと思います。 わたしが、その伝説になにかを加えるとしたら 親がこの世で、やさしさにめざめ、 亡くした子どもの分まで、有意義に生ききることが できたら、子どもたちの賽の河原での修行は 終わるのだというエンディングでしょうか。 深く考えさせられる、よい御質問でしたので 回答させていただきました。 ありがとうございました。

noname#5801
noname#5801
回答No.1

こんばんは、 逆縁(子供が親より先に逝き、親が子供の供養をする事)の罪で 賽の河原に行った子供は永遠に父母供養の石を積み上げるですから 子供が亡くなった時は親は生きていても、石を積む永遠とゆう時間から見れば、 とっくにこの世に親はいなくなってるんじゃないですか。

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