• 締切済み

社会に馴染めません

思い起こせば物心ついたときから周囲に溶け込めませんでした。幼少期は周りの子供が野獣に見えましたね。餓鬼ということですね。大人は浅はかに見えました。表面的で無理解なくせに子供を叩く、脅す、これが正義と勘違いして。私は極度に内向的で抑鬱的、視覚情報を精神に取り入れない子供でした。だから知恵が遅れ周りに付いていけなかったのかもしれない。 思春期になると無理やり社交的な振りをしました。しかし周りの反応は無視でした。無視されても私には上手くいっている振りをしなければならない事情があったので無理やり明るい振りをしました。親のためです。しかし、返ってくるのは小馬鹿にしたような無視だけ。その辛さにより、私は不眠症になりました。 学生時代にも社交的な振りは続きました。その時はもはや強迫観念だけがありました。普通に大人になれたと思った。私の欠点をあげればきりがないだろう。そんなのは誰でもあることだ。でもやはり誰とも親しくはなれなかった。 失望感の中、不眠症は続き、ひたすら生きる理由を求めて考え続けた。 就職氷河期と言われていたが、私はそんなものを言い訳にするつもりはない。ただ自分が問題を抱え過ぎて就職どころではなかっただけだ。それから十数年。色んなアルバイトを転々とした。誰とも親しくなれない。仕舞には精神科で睡眠薬を貰わなければ働けなくなった。 もう社交的な振りなんてしない。いまはただ、人に良い影響を及ぼせるように、社会にとって良いこととは何かを常に考えながら言葉を選ぶだけ。 しかし、やはり多くの場合私は無視される。何でもない他愛もない言葉さえ。根本的な拒絶感を受ける。だから私はすぐ、自分から話しかけるのをやめる。もちろん無視されるのが辛いからだ。そうすると二度と会話はない。極端な人生だ。誰とも仲良くなれない。 私は今まで自分の何かが問題なのだろうからとその都度手を変え工夫してきた。でももう万策尽きた。 もはや人間に対する憎しみだけが煌々と燃え盛っている。人と私とは感覚がまるで違うのだ。私が善と思っている真の心が伝わる人は居ない。私の見立てではみんな表面的な自己満足で生きているから、真理を考える態度は嫌いなのだ。私の善に対する態度をくみ取ってくれる人が居ない。私が私に対峙したら感動するはずだ。「その考えは本当に善なのか」そんなことは誰にも判断できない。私がそれに対峙した時感動するのは態度のことだ。 この態度だけは絶対に変えることが出来ないのだ。意固地なのではない。サガなのだ。私は表面的に情勢を見極めるとか、自分が成り立つためにずる賢く立ち回ることが出来ない。それが見て取れる人間には強烈な憎悪を感じる。だがその憎悪を表に出すことはない。だから余計ストレスがたまる。 そうこうしているうちに腰を痛めた。仕事も良く出来なくなった。 ずっと孤独に耐えてきた。生きがいもない。最後の仕事を辞めた。 ニーズがないのだ。 寝る必要が無くなったので精神科には行かない。金がない。 ハローワークの相談員に事情を説明する。月2回。それで3カ月は安泰だ。あとは餓死に向かって迷走する。しかしいざそうなると耐えられないだろう。最後には国が全ての責任を負うんだろう。 ただ、自分が成り立つためにずる賢く立ち回ることより、餓死の方が耐えられる。 質問 働く意欲について、ということになるでしょうか。

みんなの回答

  • jbeam
  • ベストアンサー率41% (85/204)
回答No.11

ご丁寧なお礼有難うございます。 気になった点が何点か有りましたので再度の投稿です。 >仕事ってやる気がないと上手くいかないんですよね・・・ ↑ 違いますよ。 評価する側からすれば、人には大まかにわけて4つのタイプがいます。 経営側から点数をつけると (1)やる気が有って(能力が有り)仕事が出来るタイプ・・・・・10点 (2)やる気は有るが(能力が不足)仕事の出来ないタイプ・・・・-5点 (3)やる気は無いが(能力が有り)仕事の出来るタイプ・・・・・5点 (4)やる気も無く (能力が不足)仕事も出来ないタイプ・・・・1点 一番いいのは (1)やる気が有って仕事が出来るタイプ・・・当然 二番目は (3)やるはが無いが仕事の出来るタイプ・・・上長の負担はあるが使える 三番目が (4)やる気も無く仕事も出来ないタイプ・・・出来る事だけやらせる(将来的にお払い箱) 最悪なのが (2)やる気が有るが仕事の出来ないタイプなのです。 (2)の人は我が強く独善的で勝手な言動となり度々判断ミスを引き起こすため迷惑以外の何物でもなく組織に損害を与える事の方が多いのです(菅元首相のように)。 >真の善 ↑再度申し上げますが、真の善などあり得ないのです。 普遍的な真の善を求めるなら、唯一絶対神に対する信仰でもない限りその論理は破綻します。勿論、大川 隆法の様に我は神であると言うならそれは、有りでしょう。 >真の善を追求する態度なのです。 何の問題も無いですよ。 ただ、質問者様にとって真理が他人にとっての真理とは限らない事が有る事を認めることは出来る筈です。 >サガだから 人にはそれぞれ業や改められないサガは有るでしょう。しかしそれが仕事をしない理由にはならないのでは >シロウト回答者が 社員教育を含めた企業の業務改善のプロもいますよ。 最後に、真の善を追求する態度やサガについては、むしろ哲学のカテでご質問された方が違った答えが返ってきますよ。

noname#155231
質問者

お礼

過去には(1)の時もあったんですけどね。無視されやすいことには変わりありませんでした。底辺では“経営側”と関わることってあまり無いんです。色んな“経営側”の愛想が、どこでも悪かったわけではないと思います。むしろ愛想の良い“経営側”の方が多かったような気がします。でも底辺の中では、成績が良ければ良いということでもないようなのです。今は・・・すっかりやる気をなくしているので面接にも受かる自信ないです。でも最後にはやるしかないんでしょうね。 真の善を追求する態度が問題ないなら、私には問題がないことになります。例えば「相談者を鍛えること」「私が鍛えられること」は具体的“真の善”と私が主張したことで、ここを焦点に述べられるなら、それは“真の善”についての真偽だから、その態度は「真の善を追求する態度」だと思います。“真の善”と主張されたことを審議することは、例え反論であっても賞賛すべきことです。つまり個人や時代状況によって変わる部分、私はここについては寛容です。私のサガは態度にあるのです。 「真の善を追求する態度」は業とは思いません。改めるべきものでもないと思います。 仕事をしないのはやる気がでないからで、やる気がでないのは迫害されるからで、迫害されるのは「真の善を追求する態度」のせいではないか、と今のところ考えている次第です。そして焦点は「そう考えている部分」にあるのではないか、と思っています。例えば「迫害されるのを無視して成果を追求すればいいのだ」という考えは、否定しません。考え中です。 回答者があなたのような忍耐強い方ばかりなら生き易い世の中なのかもしれません。 哲学カテは真の善を追求する態度は一貫して素晴らしいと思います。回答者はおおむね真の善を追求する態度をサガとして持っているのではないでしょうか。しかし、実用的でない言葉遊びが目立つため、今回はこちらにさせていただきました。 ありがとうございました。

  • jbeam
  • ベストアンサー率41% (85/204)
回答No.10

>私が善と思っている・・・・・・・・・サガなのだ。 成程ですね。 善悪などと言うものは、時代や状況・個人の価値観によって変化するにも拘らず、それに固執していては、ご質問者様が回りに無視される・・と感じるのは当然だと思いますよ。 ご質問者様の価値観なり判断の基準で行動しそれが法律に背けば罪に問われますよね。 法に背いていなくても世間に背いた言動とれば、それなりの仕打ち受けます。 そして世間は必ずしも遵法とは限らないため、意にそぐわないにも拘らず違法行為を行わざるを得ない人達もいます。 ここで言う世間とは、幼少期ではご質問者様の言う野獣に見えた餓鬼達ですね。 例え理不尽でも、その世間ではそれなりのルールが有り、それに溶け込めなかったのでしょう。 思春期・学生時代の学校やサークル・アルバイト先等々、すべて人が集まったところで世間が生じます。 そこにも例え理不尽でも曖昧極まりない自然発生的ルールが有った筈です。 ルールに従わなかった・従えなかった場合には、それに応じた世間からの仕打ちが有るのです。 その仕打ちが無視だったのでしょう。 またこのスレも一つの世間です。 ご質問様と回答者の皆さんとで世間を構成しています。 OKWaveにも禁止事項は当然有りますが、やはり判断基準は個人によって異なります。 挑発的な文章や意に沿わない内容に対し、頭からそれを否定する文章を返せばそれなりの仕打ちがあります。 まあ、ネット上の事ですので文章だけですが・・・・ 世間と価値観が合わなければ、4択です (1)戦う(あまりお勧め出来ない・・・・痛い目に遭い大抵負けて(2)・(3)・(4)になる) (2)従う(自分の価値観を世間に合わせる 自己欺瞞を剥がす場合は一番辛い) (3)待つ(辛抱し自分が世間の中心になるまで努力し待つ・・・報われない事が多い) (4)逃げる(ステージを変える・・・しかし同じことが起こる) ご質問への回答ですけれど >働く意欲について・・・・・ですね ご質問者様の場合、まず意欲など無くても働きましょう。 成果を上げる事が仕事です。 幾ら意欲が有っても成果が上がらなければ、無意味です。 その成果に意義を見出し、より多くの成果を得るために湧いてくるのが「働く意欲」とすればいいのでは? 生きるのに「生きがい」など無くても生きられるのと同じです。 「生きがい」を見つけた方が充実した人生を送れる可能性が高まりますが。

noname#155231
質問者

お礼

皆さんの解釈で気になるのは、私が善そのものについてこだわりを持っている、と思われていることです。私は善そのものにこだわってはいません。善そのものに固執してはいません。 私が述べているのは“態度”です。私は真の善を追求する態度なのです。そしてこれはサガ(性質)だから絶対に変えられないのであり、固執している訳ではないのです。私は真の善を客観的に追求しようとしますが、もしかしたらこのことが、人間にそぐわないのかな?つまり人間は偽善を好むのかな?と考えているのです。 真の善を追求する態度、ということ。偽善を良しとする性質、ということ。これらは普遍的なものであり、時代状況や個人で見解の違う“善の中身”とは違うと思います。誰にとっても、どんな時代でも真の善を追求する態度は同じだし、偽善を良しとする態度も同じだと思います。 善の中身にこだわっている訳ではないので、法に触れることとは無縁であると思います。法は善の中身を審議するものだからです。 局所的なシロウトルールが分からなくて苦労したように思います。分かったらもう少し融通の効く人生だったのではないでしょうか。 web上の、プロのカウンセラーでもないシロウト回答者が、無理解の上に言いたいことを好きに吠えたてて行くことは最初から分かっています。それでも私は真実を追求したいから、違うことは真っ向から違うと言う覚悟でいました。例えそれなりの仕打ちがあろうともです。 真実を追求することは、私のためでもありますが、相談者を鍛えることにもなると思います。それはお互いにとって真の善なのではないでしょうか。相談とは、文面の表面的雰囲気から、感情にかまけて言いたいことを吠えたてれば良いのではないと思います。ちゃんとした分析が必要だと思います。それで詳細を把握したとき、吠えたててストレス解消したかっただけの偽善者は(ストレス解消出来ないと思えば)消えて行くし、本当に心配して下さる相談者は残るのだと思います。またこのことは、私の精神力を鍛えるということもあります。 私の現状は、餓死に向かって行くところですが、多分、耐えられないので生きていると思います。その時(4)のようなことになっている可能性はありますね。何とかしたいものですが。(2)はあり得ないんです。固執ではなくてサガだから。 仕事ってやる気がないと上手くいかないんですよね・・・ ありがとうございました。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.9

他人の意見を全く受入れ無いアナタが、究極の排他主義(≒利己主義)ですが? でも・・私はアナタと議論などする気は皆無です。 アナタへの提言などに、意味・価値が皆無であることも充分に判りました。 アナタはこう言うプロセスを経て、どんどん孤独・孤立を生じるんですヨ。 ではサヨナラ。

noname#155231
質問者

お礼

私はあなたの意見を受け入れたくないのではありません。あなたはまだ問題解決に向けた重要なことは何も述べていなのです。 あなたの私に対する決めつけは、明らかに現実とは違うのです。 現実の私はむしろ自分を押し殺していると言えます。そんな現実の状態を、この面のやり取りなどで分かるはずがないのです。この面のやり取りのようなプロセスが、孤独・孤立を生じている訳ではないのです。 私の予想では、問題は、人間と私との根本的感覚の相違にあると思われるのです。人間には皆個性があり違いがあります。そこは別に問題にはならないのです。問題は違いが迫害につながっていることにあると思われるのです。 それが何なのか分かれば苦労はしていません。 私は予想しました。 人間は私が冷静に客観的に真の善に向かって話を突き詰めようとしていることを、自分の立場をおびやかしていると勘違いして私を嫌うのではないかと。そもそも人間には利己主義しかないのではないか。自分の都合を大事にして、真の善を追求する態度を嫌うのではないか。そんな性質の違いが、私がどんなに隠そうとしても(自分を押し殺しても)違和感を人間に与えてしまうのではないか。 そういう議論なのですよ。この考えが神なのでしょうか?私とはそんなに傲慢なのでしょうか?自分はエライ、愚民どもは間違っている、などと飛躍したことを述べているでしょうか? あなたはご自分が述べたことに責任をもって回答しなければならないのではないでしょうか。 この問いにあなたは全く答えもせず、言われている言葉を別の意味に転換して、私に利己主義と排他主義をレッテルします。肝心の、色だの、神だのというあなたが言ったことの中身はなにも述べられません。私の見方だとあなたはまだ中身について何もしゃべっていないのですよ。 あなたの言う「人の言うことを聞かないから」という主張。では、私が人の言うことに否定もせず、じっと耐えてきた、合わせるようにしてきたという現実はどうなるのですか? 私のそんな面をあなたは知りません。現実の私を知りません。だからあなたの述べていることが明らかにおかしいということは分かるのです。あなたの主張をそのままカラ返事で鵜呑みにしたところで、なにも意味がないということが。だから無根拠にあなたのご意見を否定しているのとは違うのです。あなたは現実の私を知らないのに、この面の雰囲気だけで私を決めつけることは出来ないのです。 私が人と自分との違いを認めて、それを受けれ入れただけで人と上手く行くなら、一生を通じて苦しんではいませんよ。そんな簡単なことはとっくにクリアーしたうえで迫害を受けているのだから苦しんでいるのでしょう。だから問題はあなたの述べるほど簡単ではないのです。 あなたは私が世間を受け入れないのだと勘違いしている。これは逆なのです。私が無視される=受け入れられないということについて考えているのです。だからあなたの主張ははじめからお門違いだと分かります。 話を放棄して無責任に去るのですか。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.8

> 世間は何を赤と言い、私は何を青と言っているのでしょうか? えっ? 仮にアナタにその認識・自覚が無いとすれば、アナタには「世間と隔絶する理由も無い」ですが? と言うより、質問文そのものが「自分は他人とは違う」と言いたいのでしょ? 「世間が赤と言うものを、私は青と感じる」と言う前提を認めないと、質問文が成立しませんヨ。 「赤・青」は、お好きに解釈すれば良いですよ。 「善悪」でも正義感などの価値観でも。 要は、それらが「自分は世間と違う」と言いたいのでしょ? 私は「別にそれは構わないヨ」「普通のコトでは?」と言っている。 ただ、その先に問題があると言ってるんですヨ。 世間との乖離を認識しつつ、その乖離を敢えて「対立軸」にしてそれにすがる(固執する)ことで、自分を正当化していると指摘しているだけですよ。 判りにくい? もっと簡単に言えば、アナタは「自分は神だ。私が正しい。愚民どもが間違っている。」と思っている様な人格です。 それにより、自分や自分が孤立することさえ正当化して、何とか自我を保ってるワケですね。 「神」では語弊があるなら、信者がゼロの教祖様とでも考えれば良いですけどね。 言い換えたら、「アナタが孤立するのは当たり前」と言うだけのコトですよ。 アナタは神でも教祖でも無いですが、それでもアナタが神や教祖を標榜・固執する限り、ソコは一人ぼっちの領域ですヨ。 覚悟を決めて、残りの人生を「神」として、孤独なまま生きていけばいい。 そもそも「神」ならば、覚悟も不要でしょう。 また、家族も医者も雇用主も世間も・・・神を救う手立てなど持ち合わせていません。 一方、自問自答した結果、「トモダチが欲しい!」「孤独はイヤだ!」「恋愛がしたい!」などと願う気持ちがあれば、アナタは神でも何でもない普通の人間。 簡単でしょ? 「神として死ぬか?」 「人として生きるか?」 のニ択です。 ついでに二択の答えも簡単。 こんなトコで質問し、孤独を癒そうとする時点で、単なる「迷える子羊ちゃん」です。 ホントに「自分が成り立つためにずる賢く立ち回ることより、餓死の方が耐えられる」なら、そもそも質問する必要も無いんだから。 「耐えられない」「耐えたくない」から質問し、「ずる賢い」かどうかなどは全く無関係に、アナタが出来そうな「立ち回り方」を、得ようとしているんですね。 それをキレイごとで塗り固めた様な文章で、「自分はそう言う人間じゃない!」って言いたいワケです。 「ソコソコずるいやり方を知ってるじゃない!」って思いますヨ。

noname#155231
質問者

お礼

私が赤とは何で青とは何かと問うたのは、私がそれを決めているのではなくて、人がそれを決めているからですよ。私はただ人が赤と決めたことは何で、私の何が赤とそぐわないのかということを考えているだけです。 私が社会との隔絶を決めているのではありません。隔絶を決めているのは人間です。だから赤とは何で、青とは何なのかを突き止めることが私には必要なのです。それはしごく謙虚な態度であり、傲慢ではありません。 この段においては、私が主張した赤と青が仮説であることが明白でしょう。私はこれを断定しているのではありません。私が決定しているのではありません。世の中はどうなっているのかという、あくまでも予想なのです。 だから固執しているというのも誤謬です。 確かに人は皆個性があり、皆違いますよね。私と世の中にも違いがありますね。そこは問題ではありません。問題は迫害についてです。ここが異常な状態なのです。 私はその赤と青が分からない。そして無視されるのが辛いからなかなかそれを訊くチャンスがない。だから無視されることが表面に上がってくる可能性の無いところで、質問してみたかったのでしょうね。 あなたの赤と青の詳細についてもっと知りたかったからそう訊いたのです。 あなたはそれが簡単に分かるのでしょうか。 あなたの赤と青の詳細を訊いたことがすでに、自分の考えに固執していないことの証明ではないでしょうか。 最も耐えられないのは利己主義に立ち回ること。 次に耐えられないのは餓えです。しかし恐らく餓えも耐えられません。 無視されることは辛いですが、それは迫害のことで、今は友達が欲しいとか、恋人が欲しいとかいう望みは薄いと思いますね。 「ずる賢く立ち回る」とは利己主義のことです。この質問のやり方は利己主義とは関わりの無い「賢い」やり方なのであり、「ずる」く(=狡猾)はありません。 神とは何で、人とは何ですか?=青とは何で、赤とはなんですか? 私は質問中で、善に対する態度の違いを仮定しましたね。あなたの述べる神と人との違いは、詳しくはどういうことですか? 私の何がキレイごとで、それをどうしてキレイごとと結論したのですか?

  • sunsowl
  • ベストアンサー率22% (1025/4491)
回答No.7

こないだ文学賞を獲った田中何とかさんみたいに作家にでもなっては?

noname#155231
質問者

お礼

そっち系の思いはありますね。

  • Ssddfree
  • ベストアンサー率7% (53/756)
回答No.6

山にでも籠もれば? なじむ必要も無くなるよ。

noname#155231
質問者

お礼

魅力的な響きですが、あなたならそこでどうやって生き延びますか?

  • tsline
  • ベストアンサー率21% (275/1260)
回答No.5

みんなに自分の話を聞いてもらいたいのか? それとも現状から救ってもらいたいのか? 住むところはあるみたいだな。 こうして質問できるWEBの環境もあるみたいだな。 アパートとかに住んでいて餓死されると大家さんが困るからやめなさいよ。きちんと身の回りを整理してから餓死しなさい。 >自分が成り立つために 自分を成り立たせることが出来ている人なんてほんの一握り。 >ずっと孤独に耐えてきた 我慢しないで誰も自分のことを知らない、言葉も通じない世界に行けば道も開かれるだろうに。 帰る場所がある人間はホントの意味で切羽詰まってなんかいないさ

noname#155231
質問者

お礼

ここでは無視されるということが表面に上がってきません。無視されていないから回答が来るのです。無視される可能性がない、それだけでも癒しになります。私は無視されていないという喜びがあります。 実は、本当は、質問は2の次なのかもしれませんね。 質問は一応働く意欲について、です。 餓死に関する諸問題は仕方がない。しかし、多分そうはならないというのは文中にあるとおりです。 世界中の全ての人は自分を成り立たせています。利己主義のためにずる賢く立ち回る人間は大多数です。 帰る場所がない状態に向かっていこうとしています。 ありがとうございました。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.4

アナタの問題は一つではないし、問題と思っていることが問題ではないですね。 まず「世間が『赤』と言っている色は、私には『青』く見える」と言う人の、認識・認知能力の相違に関し、治療する手立ては無いそうです。 従い、意固地であろうが、サガとやらであろうが、アナタが「私はこう思う」と言う考えを「絶対に変えることが出来ないのだ。」などと執着・拘泥する以上、それは、まず他人には変えられません。 ただ、程度の差はあれ、そう言う相違は、別に珍しいコトではありません。 見解の相違・価値観の相違など、ゴロゴロしています。 また、別に「世間が赤と言う色は、青と思うんだけどなぁ・・」だけでは別に何の問題も実害もありません。 ってコトで、世間の「相違」や「ズレ」そのものは、別に構わない。 一つの場合を除いて・・・。 アナタは、その一つの場合です。 「相違」や「ズレ」を、世間との対立構造にしているコトが問題なんですよ。 世間が「赤」と言うのが許せないワケですよ。 とは言えアナタは、自分を特別視することによって、自我を保っているに過ぎないのでしょう。 ホントは赤でも青でも構わないコトを、「絶対に青だ!それは変えられない!」などと言い、自分を特別に仕立て上げてるワケです。 さもなきゃ、自分が受入れ難いコトを受入れねばならないから。 「人と私とは感覚がまるで違うのだ。」なんて書いてますけど、文章は割と「まとも」で、意味がほぼ完全に通じちゃってますよ。 各種卑下する中にも、多少の自己顕示欲は伺えますが、特に問題と言うレベルでも無いです。 総じて言えば、むしろ、なかなか冷静に自己分析も出来ていて、少なくとも「感覚がまるで違う人の文章」では無いので、せいぜい「変わり者」くらいでしょうね・・。 「無視される」などの環境改善は、質問(?)との関連で考えれば、割と簡単だと思いますが・・。

noname#155231
質問者

お礼

世間は何を赤と言い、私は何を青と言っているのでしょうか? ありがとうございました。

回答No.3

善悪を主張する以前に人間として最低自分自身の生活も成りたたせることが出来ていないなら、 あなたが何を言ってもただの『独りよがり』としか受け取られませんよ。 ここであなたの質問に回答している人たちもそれぞれ自力で生きているわけですし、 あなたが餓死しようが腰を痛め様が直すも直さないもすべて自分の意志の問題です。 ここでダラダラと愚痴めいた質問をするのなら、ボランティアでも構わないので、 何かすべきじゃないですか? ハッキリ言って甘え過ぎです。

noname#155231
質問者

お礼

最低限の生活を成り立たせるためにどうすればいいのかと考えた時に、突き詰めたら、人間の善に対する態度の問題に行き着いたということです。 私はベストを尽くしている。自分の意思で。今もこうして。だから甘えているとは思いません。 ありがとうございました。

noname#159643
noname#159643
回答No.2

あなたの言う「善」って、何なのでしょう? いくら語ろうとも、一個人が唱えているに過ぎなく、万人にとってはほとんど意味のないものです。(別にアナタが言っているからとかの問題ではなく) ご自身を正当化したいのかどうだか知りませんが、アナタは単に、現代社会に「順応」できていないだけなんです。 みんな曖昧模糊とした中で、バランスをとりながら生きているんです! >幼少期は周りの子供が野獣に見えましたね。餓鬼ということですね。 ・・・(1) >大人は浅はかに見えました。 ・・・(2) 何コレ??? (1)ご自身を、多感で気弱な子供だったとでも言いたいのでしょうか? (2)は絶対「嘘」ですね! 今そう思っているだけの話です。 アナタは独り善がりでご自身に酔い痴れているだけです。 その代償として友人もいないようなのですが・・・。 いちいち「善」だの「正義」だの考えないで、もっと気楽に生きればいいんです。

noname#155231
質問者

お礼

善だの正義だのは、私が環境に馴染む上で重要な位置にあると思います。文中でも述べたとおり、「その考えは本当に善か」など誰にも分からないのです(これはあなたの「万人にとって意味がない」というご意見と何らかの関係を持っているように思われます)。それは、私が「~こう思う」と述べたことを否定されるということが嫌なのではないということです。私の問題にあるのは、「私の善に対する態度が、社会と相容れないのではないか」という懸念だと思うのです。内容ではなく、何を見据えているか、何を問題としているか、が迫害の対象になるということではないかと思うのです。 私の思いが先にあるのではなく、「馴染めない」という事実が先にあるのです。独りよがりというより、事実が先にあって、それは何なのかと思うあり様が記述されているのです。 現代社会に順応できていない、まさにその通りです。「みんな曖昧模糊とした中で、バランスをとりながら生きているんです!」ここが焦点だと思いますね。 しかし、私にとって、そのたった1行では済まない問題だった、と言うことだと思います。曖昧の中に隠された何らかの仕組みが、迫害を産んでいるはずなので。 (1)、(2)それが嘘かどうかは、他人がそれを証明する術は無いと思います。 ありがとうございました。

関連するQ&A