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社会に馴染めません

思い起こせば物心ついたときから周囲に溶け込めませんでした。幼少期は周りの子供が野獣に見えましたね。餓鬼ということですね。大人は浅はかに見えました。表面的で無理解なくせに子供を叩く、脅す、これが正義と勘違いして。私は極度に内向的で抑鬱的、視覚情報を精神に取り入れない子供でした。だから知恵が遅れ周りに付いていけなかったのかもしれない。 思春期になると無理やり社交的な振りをしました。しかし周りの反応は無視でした。無視されても私には上手くいっている振りをしなければならない事情があったので無理やり明るい振りをしました。親のためです。しかし、返ってくるのは小馬鹿にしたような無視だけ。その辛さにより、私は不眠症になりました。 学生時代にも社交的な振りは続きました。その時はもはや強迫観念だけがありました。普通に大人になれたと思った。私の欠点をあげればきりがないだろう。そんなのは誰でもあることだ。でもやはり誰とも親しくはなれなかった。 失望感の中、不眠症は続き、ひたすら生きる理由を求めて考え続けた。 就職氷河期と言われていたが、私はそんなものを言い訳にするつもりはない。ただ自分が問題を抱え過ぎて就職どころではなかっただけだ。それから十数年。色んなアルバイトを転々とした。誰とも親しくなれない。仕舞には精神科で睡眠薬を貰わなければ働けなくなった。 もう社交的な振りなんてしない。いまはただ、人に良い影響を及ぼせるように、社会にとって良いこととは何かを常に考えながら言葉を選ぶだけ。 しかし、やはり多くの場合私は無視される。何でもない他愛もない言葉さえ。根本的な拒絶感を受ける。だから私はすぐ、自分から話しかけるのをやめる。もちろん無視されるのが辛いからだ。そうすると二度と会話はない。極端な人生だ。誰とも仲良くなれない。 私は今まで自分の何かが問題なのだろうからとその都度手を変え工夫してきた。でももう万策尽きた。 もはや人間に対する憎しみだけが煌々と燃え盛っている。人と私とは感覚がまるで違うのだ。私が善と思っている真の心が伝わる人は居ない。私の見立てではみんな表面的な自己満足で生きているから、真理を考える態度は嫌いなのだ。私の善に対する態度をくみ取ってくれる人が居ない。私が私に対峙したら感動するはずだ。「その考えは本当に善なのか」そんなことは誰にも判断できない。私がそれに対峙した時感動するのは態度のことだ。 この態度だけは絶対に変えることが出来ないのだ。意固地なのではない。サガなのだ。私は表面的に情勢を見極めるとか、自分が成り立つためにずる賢く立ち回ることが出来ない。それが見て取れる人間には強烈な憎悪を感じる。だがその憎悪を表に出すことはない。だから余計ストレスがたまる。 そうこうしているうちに腰を痛めた。仕事も良く出来なくなった。 ずっと孤独に耐えてきた。生きがいもない。最後の仕事を辞めた。 ニーズがないのだ。 寝る必要が無くなったので精神科には行かない。金がない。 ハローワークの相談員に事情を説明する。月2回。それで3カ月は安泰だ。あとは餓死に向かって迷走する。しかしいざそうなると耐えられないだろう。最後には国が全ての責任を負うんだろう。 ただ、自分が成り立つためにずる賢く立ち回ることより、餓死の方が耐えられる。 質問 働く意欲について、ということになるでしょうか。

みんなの回答

  • kyoromatu
  • ベストアンサー率14% (746/5024)
回答No.1

>働く意欲について、ということになるでしょうか。 今のままではずるずると成り行き任せ・・なるようにしかならないとしか言いようがない いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識で 解決させることはできない・・・・のですから 何とかする気が多少でもあなた自身にあるかないか いずれとにかく全てはあなた次第です。

noname#155231
質問者

お礼

何とかする気が多少私自身にあるので質問してみました。 ありがとうございました。

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