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ガーナの民主国家への道
- ガーナはなぜ安定した民主国家なのか?ローリングス政権が構造調整を受け入れたことがポイントであり、他国との決定的な違いとなった。
- ガーナはかつてエンクルマの独裁体制からスタートし、内戦やクーデターを経験した。しかし、ローリングス政権が経済回復を果たし、民主化を遂げることで安定した民主主義国家となった。
- ガーナが失敗国家とならずに安定した民主主義国家となった要因は、ローリングス政権が構造調整を受け入れ、経済回復を達成したことにあります。他のアフリカ諸国と比較しても、このポイントがガーナの成功の鍵となった。
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前提としている点に幾つか問題があるのではないかと思いますが・・・ ガーナでは独立以来、全土が戦禍を被るような内戦は発生していません。クーデターは多いですが、無血であったり、ごく一部の犠牲にとどまっています。 独立後、ガーナで一番血が流されたのは1994年の北部での部族間抗争です。これで数千人の死者と15万人の難民が発生したと言われています。現在はかつてほど酷くはありませんが、北部の部族間の対立は完全には解決に至ったとは言えない状況です。 また、ガーナは2001年には経済が危機的状況であり、重債務貧困国認定を受けています。 つまり1983年にガーナが構造調整政策を受け入れた後に、大きな部族間抗争が起こり、2001年には重債務貧困認定を受けているのですから、ローリングスが政権に就いて構造調整政策を受け入れたからガーナが経済的に安定して、後に民主主義国家として安定したと言うのは、少なくとも私は強引な解釈ではないかと思います。 そもそも構造調整政策は世界銀行とIMF(国際通貨基金)の基本構想の基に、ガーナだけでなくアフリカ諸国で実施されています。構造調整政策を実施しなければ先進諸国も二国間援助を手控えるため、アフリカ諸国は構造調整政策を拒否できない状況にあります。構造調整政策一つで国が安定するのなら、もっと多くの国が安定しているでしょう。 また、経済成長と国の安定は必ずしも一致するとは限りません。 ガーナが構造調整政策を受け入れてから年平均5%の経済成長をしている事と国の安定を結びつける人もいますが、それならナイジェリアはどうなるのでしょう。2000年から去年まで10年以上もの間、経済成長率は平均5%を超えていますが反政府勢力による武力闘争は続いていますし、去年の大統領選挙では結果に不満持つ者達の暴動が起こりました。経済成長を達成していてもこうした武力闘争や暴動が起きています。 そもそもガーナは構造調整政策を実施したから経済成長率が年平均5%となったという話もを見かけますが、これも疑問です。ガーナでは金が産出されます。この金の輸出量を大幅に伸ばし経済成長率を延ばした年もあるのです。だから構造調整政策を実施したとはいえ、それが必ずしも全ての面で成功したというわけではなく、約10年経った1992年でも、ガーナの国民の52%が貧困でした。 こうした事はナイジェリアも同様でこの国は資源が豊富で石油なども輸出しているため経済成長率が伸びたりしますが、それが国民に還元されているかというとそうではなく、貧困率はガーナより上です。 私はガーナが安定していたのは、指導者、教育制度、政治制度によると考えています。 政治制度・・・ アフリカ諸国の多くで政情が安定しない一因は、列強の植民地がそのまま独立したため、国内に多数の民族・部族が居住しており、国内の権力闘争が民族抗争、部族抗争に転化しやすいという事にあります。 そのため政党をつくる場合でも部族がそのまま政党になり、そうした政党から国の指導者が出た場合、自らの政党(部族)に利益誘導を行ったり、他の政党を締め付ける事が珍しくありません。 例えば1994年に大虐殺が行われたルワンダがいい例です。 当時のルワンダ政府のハビャリマナ大統領はフツ族出身でフツ族主体の政府を作り、しかも政治的、経済的には自分の出身地の人達ばかり優遇していました。また与党のフツ族の政党としてMRND(開発国民革命運動)や、そこよりもっとフツ族至上主義者で構成されたCDR(共和国防衛連合)という政党があり、それぞれ民兵を組織していました。 そしてハビャリマナ大統領がツチ族の人達に殺されたという話が伝わると、これらのフツ族の民兵はツチ族を虐殺していきました。 しかし、ガーナでは法により部族や宗教を基にした政党を作る事が禁止されています。 そのため政党や指導者による部族や宗派への利益誘導がしにくく、他国でよくおきている政党の対立が部族対立、宗派対立に結びつく事がおきにくい構図になっています。 元々は初代大統領が自分に有利な政治的条件を得ようとして、こうした法を定めたという話もありますが、これが災い転じて福となるみたいな感じで、部族対立、宗派対立の火種を静める作用になったと考えています。 指導者・・・ また、アフリカ諸国で腐敗し欲にまみれた指導者というのは珍しくなく、それゆえ内戦に発展する国もありますが、ローリングスは少なくともそうした腐敗した指導者とは違い、無理に政権を握り続ける事もしませんでした。 教育制度・・・ ガーナはイギリスの植民地だったわけですが、その熱帯気候や疫病を忌避してイギリス人入植者は多くなく、植民地での経営活動も現地人を教育して行いました。 そのため、早くから教育が行われており、19世紀末にはガーナでは現地人を対象とした学校が4500以上ありました。 1960年に中等教育を受けていた人の割合はアフリカ諸国が1~4%だったのに対し、ガーナでは19%の高さです。 ガーナでは1961年に教育基本法を施行し小中学校は無料で義務教育と定めており、1980年の時点で就学率は73%で西アフリカで最も進んでいました。経済の低迷で一時期、教育制度も後退しましたが、1987年に新たに教育改革を行い、中学校で選択制で職業訓練の授業を取り入れるなどしています。 つまりガーナでは他のアフリカ諸国とは違い部族対立、宗派対立に発展しにくい政治制度があり、クーデターで政権は握ったものの酷い腐敗や一部の者達への利益誘導を行わないある程度評価できる人物が長年、指導者だった事があり、早くから教育制度に力を入れ職業訓練などもほどこしてきた事もあり、そうした事が国を安定させ、経済が悪化した時期もあったけれど年々貧困層が減り、民主主義国家としてより安定度を増していったと考えます。
お礼
ありがとうございます。 大変助かりました!! 感謝です!