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仕事に対するとらえ方について質問。
はじめまして。 社会人2年目のに入る20代の者です。 最近、仕事への集中力が以下の理由から低下しているので 人生経験豊富な皆さんの意見を伺えたらと思います。 私は学生時代=人生の縮図と考えた時から、 「10代、20代から定年になるまで仕事をして、引退したら年金をもらって余生を穏やかに過ごすというライフスタイル」 それ自体に脅威を感じるようになりました。 例えば、大学4年間を非常に充実した!という人がいるとして、 卒業時になり、「じゃあ、どんな知識やスキルが身についたの?」と聞かれた時 ほとんどの学生(特に文系)は自分が選考してきた事について誰かに1時間も話せないのではないか? と思います。つまり、後に何も残っていないわけで、ただ楽しかったという思い出しかありません。 これを人生に当てはめた場合、定年(卒業)になり、職業人として充実した!という満足感がいくらあっても、 定年を迎えたら、若い頃にいくら輝いていようが、家族や人様の為になるような事をやっていよう が、会社を経営していようが、引退し、天寿を全うすれば後に何も残らず、 自分のやってきた事はあくまで一過性のお祭りや水商売みたいなもので 社会との密な関わりが失われた途端に せいぜい、旅行、町内会のイベント、ボランティア、孫の世話、犬の散歩、年寄り同士の歓談 といった程度の暇つぶししか無くなり、頭も体も弱り切っていく人が多いというイメージがあります。 医者や弁護士や一流企業の社員であろうが、タバコ屋のおばちゃんであろうが 多くの人々・人生がそんな未来に収束していくであろう現状を垣間見ると 自分が取り組んでいる仕事の意味合いは何だろうか? という疑問が沸いてなりません。(100歳近くで現役医師という方もいますが・・・) まとめます。 人々が目の前の仕事に集中するにあたり ただ食べていく為・・・ 家族や住宅ローンの為・・・ 数字を更新する達成感がたまらないから・・・ 仕事で関わった人が喜んでくれる事が嬉しいから・・・ お金持ちになりたいから・・・ などなど、十人十色で理由はあるかと思います。 ただ、何十年も頑張って働いてきて、様々な苦悩を乗り越え、様々な知識や経験があるのに 定年を迎えて仕事をやめた途端、社会からはじかれ 何の意味合いも持てない、漫然とした日々を過ごす羽目になるかもしれないという将来に対し 皆さんはどのように考え、仕事に邁進し 高いパフォーマンスを残していく意味合いを持たれているのでしょうか?
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- garasunoringo
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前の回答だとわからないでしょうね 私は色々な仕事をしていますが、映画のプロデューサーもそのひとつです 私の映画に携わった多くの役者やスタッフが、映画作りの中で色々なことを得ます ギャラを得て生活の糧にするのはもちろんですが、それぞれの分野の専門スキルを磨き経験を積み、若手のぺーぺーは夢を描き、未来の映画監督として育ってくれるかもしれません あるいは、客として観た人が映画の素晴らしさに惚れて映画創りを目指すかもしれません 自分が死んで何十年も経った後に、その時代の名映画監督がインタビューで映画の世界に入るきっかけとして、私の映画を上げてくれるかもしれません 自分の仕事に携わった人々が、また別の仕事で更に活躍していく。
- garasunoringo
- ベストアンサー率16% (358/2178)
自分が歩いた足跡に、キレイな花が咲くといいなと思っています
- rei_and_rei
- ベストアンサー率32% (145/444)
そんな細かいこと考えてないです。 仕事自体が楽しいし、今の生活が大切なので、仕事と生活を守り、よりよくするために必要なことをする。それだけです。私の職業に「定年」はありませんから、体が動く限りは続けたいと思っています。 もちろん、あなたの言う学生みたいに、在学中ロクに勉強もせずに高い学費と貴重な時間を楽しく浪費しただけだったら、卒業後(老後)はさぞつまらないでしょうね。 でも、将来成し遂げたいことのために本気で勉強して、必死で働いた学生の卒業後(老後)は、前述の学生と同じようなつまらないものでしょうか?私はそうは思いません。 体が動かなくなってから、「今までやれるだけのことはやった。楽しかった」と思えるならそれで充分じゃないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。
私の場合は至極単純に、人の一生なんて、家庭を作って、子供を育て、その子に次代を託して、死ぬ。それだけ。その中で、ちょっとの“幸福感”やたくさんの“苦労”や“悲しみ”を味わうだろうが、“彩り”に過ぎない。まぁ、その意味を深く考える『哲学』好きもいるでしょうが、私には“単純”な方が性に会ってる。 で、『仕事』なんて、所詮その“務め”を達成するための『お金』を稼ぐもの。或いはその『お金』のための自分の時間の“切売り”。 私の場合は、自営ですから、上司や会社という他人から評価を受けて“稼ぎ”が上下するわけでなく、自分の“働き”が直接的に取引先やお客様に評価されて上下しました。 まぁ、やはり単純な生き方だって、その過程では“幸福感”の方が“苦労”や“悲しみ”より多いに越したことは無い。それを支えるのは唯一“自分の稼ぎ”だけ。 それで今は人生の最終盤。マラソンで言えば、もう競技場の中。ゴールも見えてる。 あとは、娘に如何なる形で少々の資産を渡し、如何に自分の一生をす~っと終えるか。 『ボランティア』はやってますが、『孫の世話』までいる積もりも無い。 『犬の散歩』はしてますが、『年寄り』の話なんて聞いたって何の役にも立たない。大学時代のクラブのOB会の役員をして現役学生を支援し、大学生や若い人と話していた方が余程役に立つし第一愉快。 友人・知人は、還暦にして、“世田谷のご隠居”って揶揄するが、ご隠居も良いもんだ。 マックス・ウェーバー曰く、『利益を得るのは人に幸福を売ったから。』(『プロテスタンティズムと資本主義の精神』) まぁ、自分の人生に後から付けた屁理屈ですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- tomban
- ベストアンサー率26% (2616/9771)
あなたは「人生は引き算」と思っていらっしゃるのでしょうか?。 もしくは「そう感じている」のでしょうか?。 それとも何か他の感慨があって、そこから質問のような答えを導き出したのでしょうか?。 私が正直に思うところの、あなたの「未来感」というのは「著しく範囲が狭いもの」と思います。 人の人生は仕事オンリーであるはずもなく、社会というものも極めて「広義」なもので、人と人とのつながりという物もまた、単に一過性の関わりでもないし、一方通行の味気ないものでもありません。 「袖ふれあうも多生の縁」と言います。 人が生まれて、この世に生きるということは、ただ「生まれついたから」ではなく「何かを知って、末期を迎えるため」です。 死がすべてを無に帰すわけではありません。 生まれて死んでいくだけの人生など、どこにもありません。 そう思えるのだとしたら、それは自分が心を閉ざしていて、そして「そんなものさ」と嘯いているからでしょう。 どんな人であっても「何か」を遺します。 他人にとってそれが快適なもので有るばかりではありません。 価値のある、有意なことばかりでもない。 しかし「色々な人の、色々な遺物」をひっくるめながら動き続けるのが「人の世」なのです。 あなたはまだ知らないことが山のようにあります。 誰かに強引に袖を引っ張られたことがないのでしょう…それはまだ若いから仕方がないことではありますが、もし「強引に引かれたとき」に、しっかりと踏み込める「足」を持っていないと、グラグラした姿勢のままで倒されてしまいますよ?。 目線を宙に泳がせていてはいけないのです。 それは生きていく上では「危険」なのです。 夢を見ているような、自分がどこにいるのかわからないような「今の場所」に長くいてはいけませんよ?。 早く「生きていく」という、あなたが本来いるべき場所に帰ってくることです。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- cactus48
- ベストアンサー率43% (4480/10310)
誰でも将来の事を考えるのは当然です。人生設計をしっかりと しないと後で泣きを見る事になりますが、あなたの場合は先の 事まで見過ぎています。まだ20代ですから、定年や老後の事 まで今の段階で考える必要があるとは思えません。 そんな事を考えるから、仕事への集中力が低下するんです。 今は人生の基盤を作っている最中なんです。あなたが一生懸命 に仕事を頑張れば、それだけで人生の基盤は出来上がります。 あなたが気が付かない内に、自然に人生の基盤は出来上がって 行きます。とにかく今日一日が大切なんだと考えましょう。 一日頑張れば頑張った分だけ人生の基盤は大きくなります。 今のように大切な一日を使って、定年だの老後だのと考えると 人生の基盤は日に日に遅れてしまいます。 一日分の人生の基盤の大きさは、それは誰にも分かりません。 ただあなたが気が付かない内に人生の基盤は確実に大きくなっ ています。 あなたが定年を迎えられた時、今まで積み重ねた人生の基盤の 大きさが、初めて自分の目で確かめられるようになります。 とにかく余計な事は考えず、今日一日が大切なんだと考えるよ うにしましょう。「今日も一日頑張れた」この思いが人生基盤 を大きくする事になります。
お礼
ご回答ありがとうございます。
お礼
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