宗教関係者ではありませんが・・・一応、宗教学は多少学びましたので回答します。
質問者様はもし、死にたいほど苦しいことがあったとして、死ぬことが最善の策だと思いますか?
まあ、死にたい人を引き留めることは、誰にも出来ないかもしれません。
それが、本当に死を望む生き方であるならですよ。死することが正義なら、誰にも止められないでしょう。
ただ、多くの場合、死というのは質問にもあるように、苦しみから来るものです。ある意味、まやかしです。死という選択をしない人の多くは、苦しみを受け止めてもその苦しみだけ、喜びを味わったり、苦しみを分かち合える人がいたりするのです。もしも、その死を望む人に、その喜びや分かち合える相手がいれば、死にたいと思う人は、死にたいとも思わないという可能性があるのです。それが、答えであり、人の生きる力というのは、どれだけ負をため込む、どれだけ正を維持できるか、または増やすかによって、変わるのです。もしも、正を負によって失えば、人は簡単に死を選びます。
本当に死にたいわけではなく、死にたいとその瞬間に思う。それを避ければ、人は50年生きるかもしれません。それだけのことです。
ちなみに、自殺を防ごうとする人が世の中にいる理由は、自殺者を抑えられなければ、負が増え不幸が広がるからです。元々、人は群れて生息する集団の心理をもつ生き物です。例え自分が一匹狼のように思えても、自分で衣食住を用意し、一人山小屋や無人島で暮らすことが出来る人は、ほとんどいません。人は、誰かに助けられて初めて、生きることが出来るのです。
その中で、集団の心理はとても大事な条件となります。人々の心が荒み、支え盛り上げる人(ムードメーカー)が一人もいなければ、その集団は集団自決をするかもしれません。先細り子供が減り、絶えるかもしれません。自暴自棄に陥りテロに身を委ねるかもしれません。個の自殺は、そういった集団不安心理を助長する原因となります。
しかも、その心理が分からないと答える人ほど、いざ自分が同じ立場になると、死を選択しやすくなるという、落とし穴もあります。分からない人の多くは、自分は強く、自分で何とかなるものだと思っています。しかし、いざ負のスパイラルに陥ると機能しなくなり、人に頼ることも難しくなります。
結果的に、孤独となります。それにさらなるプライドなどがあれば、死がより身近になり、死が正しい選択に見えるようになります。その周りに、家族や大事な友人がいて、自殺したと聞けば、その家族や友人の心も影響を受けることでしょう。
尚、宗教観は、あくまで人を支えるためのバイブルでしかありませんが、それが必要ない人にとっては、よりどころでもなく、煩わしいものになるでしょう。即ち、宗教観というのは選択の自由があり、必ずしも強制されるものではありません。
そして、教典や聖典などはよりどころであり、信じる人の生き方を支える程度です。
教典や聖典には、死を尊み、自殺を戒める記述があることもありますが、信仰心を持つ人の多くは、それだけをピックアップしたりはしません。どちらかというと、先に書いたように集団で支え合っている心理と己の役割、そして己の小ささを説き、そこから死を選ばせない生き方をさせることが本来の宗教観です。
死が悪いというよりは、死を軽々と選択させる社会は、人々にとっては危険な社会であるということを、知れば誰もが簡単に、自殺者を自分達には関係ないとは言えなくなるでしょう。今は、大丈夫でも将来において、自分が同じ立場に置かれる可能性もあります。
そう考えれば、自殺者を引き留める人、ダメだと諭す人がいることは、とても大事なことです。全く、無関心になり、誰にも止めてもらえない社会が現実になれば、人類は滅びるしかないでしょう。集団で存在していても、お互いがお互いを気に掛けないのですから、個の精神力の弱さが露呈しやすくなります。
お礼
回答ありがとうございます 大変参考になりました あなたの言うとおりだと思います