先日私見を書き込みました、7番目の回答者です。
実は、書き込んだ後で、この質問が「技術」ではなく「政治」のカテゴリに入っていることに気が付き、ああ質問なさっているかたは、あの事故の問題の本質を本能的に察知しているのだな、と思いました。
安全な原発を作ることは、昔から可能でした。
震度でも津波でも、福一よりひどい目にあったはずの女川が問題なく停止し、それどころか、女川原発の敷地内にある体育館は、女川町の中で一番安全な場所として住民が非難してきたほどです。
とどのつまり、「やる気」の問題なのです。東北電力は同原発を建設するにあたって、津波対策として非常に広い緩衝地帯を作りました。堤防では簡単に破壊されてしまうような巨大津波が押し寄せてきても、その緩衝地帯を遡ってくるときに、津波は自分自身の水の重みによって押し戻されるように工夫してあったのです。
東北電力にとって、東北地方は、自分の故郷です。
東京電力にとっては、東北地方はどうでもいい辺境の地です。東京電力は、東京電力管内にはただのひとつも原発を建設していません。自分たちがどんな原発を作っているか分かっているからです。今回の事故で、東京電力は自分たちの先見の明の高さに満足していることでしょう。
他の回答者の皆さんの技術的な話については、私は異論はありません。技術的には、今以上に安全性の高い原発を作ることは可能ですし、研究を進めることで安全性はどんどん向上させることができるでしょう。個人的には、反応が穏やかに進み、燃料交換が長期にわたって不要な進行波炉は、原理的に暴走がほとんどありえないので最有力候補かなと思っています。
ただ、安全性を高めるためにかかるお金と、安全だと国民に信じこませるための宣伝費、どちらが安いかと言えば、後者が安いのですよね。経済的合理性という立場から、企業も政府も安上がりな方を選びます。これは、本当は、外部不経済とかモラルハザードと言うべきものなのですが、原発で利益を得ている連中からすれば、どうせ次に同様な事故が起きるとしても、自分はたぶん定年退職して悠々自適な生活を送っているか、もしくは、もう天寿を全うしている頃である可能性が高いので、20年後、50年後に事故でどこかの田舎者が何万人死のうが知ったことではない。
放射性物質は、どんな思想信条の持ち主に対しても平等に影響を与えます。右翼も左翼も、金持ちも貧乏人も、都会人も田舎者も、だれであれ、100%致死量となる7~10シーベルトの放射線を浴びれば、絶対確実に死にます。何の差別もありません。
一方、人間は人間を差別します。
「私たち」の利益のために「彼らたち」の生命や財産に脅威を及ぼすのは「私たちの社会にとって」よいことだと、あるいは、もっとあからさまに言えば「あいつらが苦しんでも死んでも構わん。オレたちの欲望を満たすことは正義だ」と、自分たちの欲望を満たすための行動を社会正義にすりかえて主張する人はいくらでもいます。この質問の回答者の方々の中にも、見受けられるように思います。
そういう人たちが社会の中枢にいる限り、そして一般人の中にも多数存在して中枢部の人たちの政策を支持し続ける限り、いかなる技術革新も安全基準も、原発の安全性を高めることはできません。なぜなら、安全性を高めるべきだと思っていないから。口先では何とでも言いますが、本音では、「あいつら」の安全より「おれたち」の金のほうが大事。だからこそ、原発は「あいつら」のところに建設するわけです。
正直、状況は悪化する一方です。
原賠法は、電力会社に無過失無限責任をもうけており、これは「大事故を起こせば、とてつもない額の債務を抱え、会社など一瞬で根こそぎ吹き飛んでしまうことになる」という、非常に厳しい責任を負わせることによって、電力会社は真面目に真剣に安全な原発を建設、維持、管理するように仕向けるものでした。
しかし、今、この法律は骨抜きにされ、どんなに凄まじい事故を起こしても、電力会社は絶対に倒産させないと決まりました。もはや、電力会社には、原発の安全性を高める必要性がありません。これから建設する原発は、今より安全どころか、むしろ安あがりの粗悪品になるかも知れませんよ。
その兆しはすでにあります。先日政治的判断で停止した中部電力の浜岡原発。マニュアル通りの正しい手順で時間をかけて安全に止めたはずなのに、一番新しい原子炉で復水器が破損し、海水が侵入しました。破損の原因は、コストダウンのため、復水器のステンレスの板が古い機種よりも薄くされていたからです。
何度も事故を起こすことによって、次第に安全性を高めていく・・・ と、いうようなことを書いていらっしゃる人もいました。それはそうかも知れないですが、では、あと何十万人の被害者を出せば、原発の安全性は高まるのでしょうね。「やつら」の命はどうでもよい。と、「わたしたち」が考えている限り、永久に安全性は高まらないと思います。くどいですが、「わたしたち」には安全性を高める必要がないからです。
この文章を書いていて、私は非常につらいです。
昔は、私は反原発派に対して、今のような感情を持っていました。技術者がどんなに努力して安全性を高めても、彼らの政治的主張はかわらないし、彼らは技術者を政治家の飼い犬と決めつけて技術者の言い分など聞こうとはしないと。
そしていま、私は原発推進派もまた技術者の警告など頭から無視して、自分たちの欲望を満たすために安上がりな原発を求め、安全性を高めるために努力するのではなく、安全上の問題を指摘する人間に非国民のレッテルを貼ることことによって、問題を隠蔽しようとしている。
質問者さんが、科学技術ではなく政治のカテゴリに本件を投じたのは、大変聡明なことだと思います。政治や社会の腐敗に対して、科学技術は完全に無力です。
お礼
ありがとうございます。 私は科学技術を生かすも殺すも政治だと考えています。 科学技術の進歩は全体として社会に貢献しています。しかし、原発の安全性はまだまだ極めて不十分だと思います。そもそも放射能廃棄物を10万年も貯蔵管理しなければならない現状では無理だと思います。それでもすでに存在するので対処に苦慮するところです。