人間の心に『感情が湧き上がる仕組み』を何処でも、誰でも教えてもらっていません、この事が『鬱病』が治り難い事の原因になっていると感じます。
鬱病が如何して発症してしまうのかの原因を今の医学では特定出来ないと言う見解になっています。そうして『早めの治療をすれば』早いほど良くなります。と云う事を良く耳にしますが、原因が分からないのに治療の方針が決定されています。
原因が分からないのに、治療が出来るというと云う事は真に不思議な現象になっています。そうして薬が処方されています、そうして薬の役割は、症状を押さえ込むための『時抑えの役割』と云う事が言われています。『薬は根本治療ではない』と云う事が常識になっています。
原因とその原因を取り除く事にまで、今の医学は『手が回らなくて』その原因の特定を、今は分からないままに、薬による症状の緩和が図られている事になります。
その結果が『寛解』と言う現象になっています。今の医学では『寛解』が限度と言う意味です。寛解という意味は『小康状態を保っていて、何時再発するかは分かりませんが、様子を見ましょう』と言う意味になると感じます。
そこで鬱病の原因と完治という事を書いて見ます。
人間の心は感情を感じている心を『今の医学は心』と言う風に説明しています。確かにその通りですが、人間の心はもう一つ在ります、そのもう一つの心を見落としているために、今の医学には進歩が見られません。
一人の人間には二つの意識が存在する科学的根拠をウイキペデアから紹介しておきます。
”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”
この場合の右脳に存在する意識を『キリスト教では神と呼んでいます』或は仏教では『仏性』と言っています。
この右脳の働きを簡単に説明しておきます。一言で言うなら『命そのものを働かせている意識』と云う事になります。その働きは『命として芽生えた瞬間から働き始めている働きです。』
初めの働きは『細胞分裂するところから始まっています』そうしてその種としての働きを働くところに在ります。人間なら人間として働く働きです。蟻ならその蟻の種類として働く働きです。
熊ならその熊の種類毎に違う働き方をする働きです。植物にも存在する働きです。
植物でもその種類毎に働く働きです。桜は桜として働く働きです、その桜でも、ソメイヨシノならソメイヨシノとして、咲き時期や散る時期や、形や色の違いを既に知っている働きです。
人間にも動物にも植物にも全て『命あるものには』備わっている働きです。お釈迦様の場合その『命の働きを』一切衆生悉有仏性と書き残しています。
命あるものには全てに『備わっている働き』と言う意味です。人間の右脳に備わっている働きの事を言っています。その働きには主人公がいます。人間を人間たらしめている働きの主人公です。その主人公を『仏性』と呼んでいます。
命として芽生えた瞬間から働き始めて、全てを知っている者の事です。生まれるや否や泣く事も、笑う事も、不安と云う事や恐怖と云う事も『誰に習わなくとも全て知っている者』の事です。
大人になった場合、カラオケをした事もない人でさえ、誰が上手で、誰が上手では無い事でさえ知っています。悲しい場面では『身も心も悲しくさせています。』寒い所では、身体にも心にも寒い事を教えて、さらに『暖かいところまで探させています』
腹が減った事も、便所に行く事さえも『指示を出しています』暑くなった場合汗を流す事をしながら、涼しいところや、水の在り処まで探させています。
人間の感情でさえ『湧き上がらせている者』と言う言い方も出来ます。ホルモンの調節や胃や腸の働きから、心臓や肺の働きまで『その場その状況において』最適に保つ働きもこなしています・
命に関わる緊急な場合では『自我意識たる心』を差し置いてまでも働きます。身の毛もよだつような体験の場合『身の毛をよだたせている者』の事です。高い所では、その高さに応じた情報を脳梁を介して送っている者のことです。
目にゴミが入りそうな時には『自我意識にはとても出来ない速さで』瞬きをさせている者の事です。
右脳の人格とは『仏性』の事を言っています。人間の身体も心も支配しながら、『自我意識には不可知の者です』自我意識には分かりにくい存在と言う意味です。
その者は思春期頃、つまり『脳の機能分化が完成に近くなった頃』無意識の底に沈んでしまいます。人間の心の奥底、言い換えるなら『意識の根底で』自我意識と脳梁を介して情報交換をするようになります。
その情報は『言葉によらない情報として』脳梁を介して送られてきます。この情報の解読をして『自我意識は言葉にして、湧き上がる感情として、表現している事になります。』
この情報の解読を間違った時、その間違いの程度に応じて、或は、その情報の意味が判らない場合の程度に応じて、或はその情報を受け取りたくないと判断した場合、その送られる情報の内容の中身毎に、自我意識は『違和感として、或は生き難い想いとして』感じてしまうと言う意味です。
人間の心理、或は精神、或は心、或は行動は『二つの意識の交替制から成り立っています』この交替制が崩れた場合、『命の働きからの交替要請が働きます』それが違和感です、或は『漠然とした不安』です。
昔の時代は『罪の意識、或は業』と言う表現方式をとっていたものです。
つまり人間の生き難い想いとは『心の矛盾』を症状として受け取っていた事を意味します。その症状を『心の異常として、或は症状として感じた場合』心が異常になったと言う錯覚をします。そうして心が『違和感で一杯になります=つまり自我意識に圧迫が加えられる』と言う意味になります。
鬱の場合『意識の根底からの圧迫感を味わっています』漠然とした不安が高じた場合には『パニック障害』と同じ心的圧迫感を味わう事になります。
とても仕事どころではなくなるという意味です。
鬱の原因を書いて見ました、今度は完治すると云う事を書いて見ます。心に加えられた『漠然とした不安が解消する事です』意識の根底で『自分の心が合い争っていた事に決着が付く』と言う意味です。
心の矛盾が解消する事を言っています。
『心の矛盾』は、湧き上がる感情を『湧きあがらせている意識』と仲違いしている事を意味します。或は『生きるために必要な情報の受け取りを拒否する事』を意味します。
他の言い方をするなら、人間の脳の機能は、二つの機能から成り立っている事を意味します。自我意識は『言葉を使う機能から成り立っています。』言葉とは『分別機能の事』を言っています。物事を分けて細かく分析して、計算して、割り切ってしまう作業です。
割切れる事を計算する機能が自我意識の機能です。つまり自我意識には『有限』と云う事しか理解できない機能から成り立っている事を意味します。他の言い方で言うなら、分かる事以外は計算出来ない機能と言う意味になります。一つでも不確定な要素が在るなら、『その計算はお手上げ』と言う意味です。
右脳の機能は『言葉以外の機能から成り立っています』割切れない問題を解く機能が有ると言う意味ですが、この事を分かりやすく説く事は、此処では省きます、長くかかりそうだからです。
右脳の機能は『割切れない問題を解く事』です。割切れない問題は答えは無限と言う意味になります。つまり右脳の意識は『永遠で出来ている事を意味します。
心の矛盾とは『有限の自我意識』VS『永遠の意識(存在)』と言う意味になります。
人間が生きてゆく時、様々な問題に遭遇します、その問題に対して、どちらの意識がその問題に取り組むのか?と言う意味ですが、健常者の場合『交替制が上手く作動している事によって』適切な脳の機能を使い分けている事を意味します。
鬱の場合『出来ない方の脳の機能で』問題に取り組んでいます。いかに時間を掛けたとしても、機能的に出来ない問題に取り組んでいる事から出来ない事を意味します、心が出来ない事を知っている事から『不のスパイラルに入ってしまいます』出口が見つけられないという意味になります。
この悪循環を『一切皆苦』と表現しています。
この解決を『キリスト教』」では、神と和解するといいます。仏教では『見性』という表現を取っています、表現方法は、違うにせよ、『心的な内容』は同じです。
自身に圧迫を加えていた者の正体が分かるという意味になります。
自我意識が『自身の命の働き』と仲違いしている事が『心の矛盾』です。心の矛盾の解消を『完治』と言います。『内在する自身の識られざる神と和解する事』を完治と言います。
お礼
もう少し鬱病について勉強してみようと思います。 彼とは今まで通りに接していこうと思います。 詳しいご説明ありがとうございました。