創価学会の者です。
世間では、「故人が成仏するためには葬儀に僧侶が出席し、祈ってもらわねば成仏できない」というのが一般的考えですが、それとともに、成仏に不可欠とされるのが、いわゆる「戒名」です。
しかし本来「戒名」とは、仏門に帰依した際に師僧から授かる「法名(ほうみょう)」のことを言うのです。我々が信奉している日蓮大聖人も、その書籍(御書)に「戒名」という言葉を一度も記されてはいません。また大聖人が、在家信徒の死後に戒名を授けたという記録も残ってはいません。
仏教発祥の地であるインドにも「戒名」なるものはなく、中国の慣習に基づいて、仏教伝来とともに日本に伝わったとされています。「戒名」が日本の仏教界に広まったのは、室町時代から江戸時代にかけてのようです。まず、貴族や武士など上流階層の死後に「院号」を贈る慣習ができたのですが、これが死後戒名の発祥と言われています。その後一般民衆にも広がり、これに目をつけた僧侶は、「戒名」を有力な“商売道具”とするようになったわけです。
こうして、「供養の金額が多ければ多いほど立派な名称の戒名が得られる、それによって成仏も決まる」といった、いわば「地獄の沙汰も金次第」などという、歪んだ風潮が蔓延するようになったのです。このような戒名制度の在り方は、経済的、社会的な差別を招く温床となっていきました。それが今日まで継続し続けているのです。
「一切衆生平等」を説くのが、仏教の本来の精神のはずです。それなのに、「お金を多く出すか出さないかによって成仏は決まる」などといった戒名の在り方は、仏教に差別的体質をもたらす、仏教の本質とはおよそかけ離れた異質なものです。
日蓮大聖人は、「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し」(一念三千法門)と仰せです。何十万、何百万の大枚を叩いて大層な名称の戒名を授かったところで、故人の成仏の可否に何の影響も与えはしません。要するに、戒名の有無や僧侶の介在に関係なく自分が仏道修行に徹してこそ、成仏の境涯に至ることができるのです。死の直前まで修行もせず、遊びほうけ悪事を重ねた人物でも、大金を払って戒名をつけてもらい、僧侶に拝んでもらえば成仏できるなどというのは、およそ因果を無視したおかしなことです。
成仏できるか否かは、所詮、自分の生前の努力(修行)により決まります。人に拝んでもらったり、仏教の本質とは関係のない名称をもらったりして決まるのではありません。最近では、お金のかかる葬儀の在り方に疑問を感じ、葬儀に僧侶も呼ばず戒名もつけないという「家族葬」を行なう人も増えています。
私の結論として、成仏は、自分自身が正しい仏法(南無妙法蓮華経の日蓮仏法)を実践し、成仏の原因を確立することで決まるのです。
お礼
ご丁寧なご回答いただきありがとうございました。 なるほどと思わせていただき、理解できました。 そうですね。いろいろと葬儀をみていますと 家族葬というのが多いのにびっくりしました。 私もそうしたいと皆さんのご回答で決心いたしました。 本当に心からお礼申し上げます。 ありがとうございました。