• 締切済み

他人を特に必要としないことは傲慢でしょうか?

三十代後半未婚女性です。 つい最近、ご近所の方が亡くなりましたので、母と共にお通夜に行きました。 豪華な祭壇やお供えの花、途切れず訪れる多数の弔問客、積み上げられた弔電の数々。 大変立派なお通夜でした。 帰宅した後、母が 自分が死んだ時も、あのような立派なお通夜でありたい。 たくさんの人に弔問に訪れていただきたい。 人は生きてきたようにしか死ねないから、今まで苦労してきた分、死ぬときは「あの人は頑張ったね、見事に人生を終えたね」と、他人から評価をしてもらいたい。 としみじみと話していました。 母も六十代半ば、死は遠いことではありません。 私も兄弟達も母の言葉通りに立派なお葬式をしてあげようと思っています。 ただ、お通夜の際に私は、 人はいずれ死ぬ、その事実は変わらない。 どれだけ盛大な葬儀をしても、よほどの有名人でもない限り、顔見知り程度の人の心には三日と残らない。 私が死んだ時は、心から悼んでくれる人だけが弔問に訪れてくれれば良い。 義理で来る人は来る時間ももったいないだろうし、私も必要としないから来てもらわなくてもいい。 そもそも、葬儀などいらない。お金の無駄。 戒名? 名前を変えることで天国に行けるなら、こんな良いことはない。これもお金の無駄。必要無し。 遺体は焼いて、残った骨は海や山へ散骨してくれればいい。所詮は魂のぬけがらなのだから。 お墓など、あっても仕方ない。孫以降の時代になると、どうせ無縁仏になり、半世紀後にはお墓も整理されて、遺骨はどこかにまとめられるのだから。 ということを淡々と考えていました。 このことを母に話すと 「あなたの考え方はおかしい、世間には通用しない」 と言われましたが、私にとって、世間とは「軽視はしないが、重視もしないもの」でありますので、世間の評価などどちらでも良いのです。 誰かが私を批判しようと、その相手が私にとってどうでも良い人間なら、何も反論せず放置します。 仕事に差し支えがないように最低限の常識をわきまえつつ生きていく。 定年になるまで仕事をし、老後はのんびりと過ごす。 父を含め、男という生き物に対して良い思い出もないし、恋愛をしたこともないので、結婚は出来なくても構わない。何人かとお付き合いもしたが「俺のこと好き?」と聞かれても疲れるし、第一セックスするのが苦痛で面倒。同居など絶対無理。 友人がいなくても特に困らない。その分時間を他に回せる。 旅行や趣味の時間、勉強、家事等で忙しいし、ひとりでも孤独を全く感じない。 これが私の生き方ですし、価値観でもあります。 そんな私を、人は傲慢だと非難します。 顔見知り程度の人だけではなく、家族もです。 私は、私を育ててくれた母、ケンカしつつ支えられてきた兄弟、生きていく為の仕事、好きなことが出来る時間があれば、他には特に望みません。 いずれ孤独な独居老人になっても一切構いませんし、身体が不自由になったらヘルパーさんを頼めるだけの老後資金も貯めています。 他人を特に必要としないことは傲慢でしょうか?私の考え、価値観はおかしいですか?

みんなの回答

  • kernel_kaz
  • ベストアンサー率23% (665/2872)
回答No.2

他人を必要としないってのは、『無償で何かしてくれる他人』限定ですね? 『有償ヘルパー』は他人に含まれて無いようですし 自給自足でもしない限り、他人と接点持たずには暮らせない 食料品だって、どこかの他人が生産して、他人が流通して、他人が売ってるから、喰えるわけ 仕事にしても、あなた以外の人が不要なら、あなたは個人事業で孤軍奮闘しなければならないけど、今度は客という他人が必要 そういう他人があるわけだから、漫然と言うと、傲慢と言われるのでしょう 無償の他人と限定して宣言すれば良いのですよ 寂しい考えだなとは思いますが、あなたの人生はあなたのもの 葬儀は故人の為というより、残された遺族や友人が偲ぶためのものですから、あなたの葬儀はあなたの遺族のもの 遺族がいなきゃ、そんな心配は無用ですよ 私も独身でこのまま行けば、孤独死だってあり得る でも無縁仏は嫌なので、甥と姪に、納骨だけ頼んでます 骨を拾ってくれる友人もいますしね

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.1

その考え方は否定しませんが、お母さまに話すことは間違っています。 口論になることくらい、目に見えていませんか?