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中国とチェンバロ
チェンバロがフランスで流行していた時代に中国ブームのようなものが起きていました。その証拠に中国風のデザインのチェンバロが残っています。そこで思ったのですが、このチェンバロが中国に持ち込まれたということはありませんか?ラモーやクープランなどはよくききますが、当時中国にチェンバロ弾きがいたとは考えられませんかね?もしいたとしたら曲が残っているのでしょうか?かなり面白そうだと勝手に思っています。
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お話の「中国風デザインのチェンバロ」はいつ頃のものなのでしょうか。 「チェンバロがフランスで流行していた時代」とは、18世紀でしょうか、それとも19世紀末からの復興期でしょうか。 19世紀末だとすると、当時のフランスでは、印象派の画家は日本の浮世絵に影響を受け、音楽でもドビュッシー「海」の楽譜表紙が「富岳三十六景」の浮世絵だったりインドネシアのガムラン音楽に影響を受けたり、マーラーが「大地の歌」、R.コルサコフやラヴェルが「シェエラザード」を作ったりと、東洋に興味が高まっている時期でした。 この時代に作られたのであれば、フランス国内の需要向けの「中国風デザイン」ではないでしょうか。 18世紀製とすると、その時代には「作曲家」というものは存在せず、演奏家が雇い主(王侯貴族)の要求に応じて自分で作曲して演奏する(曲は即興演奏も含めて使い捨て)のが普通でしたから、中国にチェンバロがあったとすると、作曲家兼演奏家も一緒でなければならなかったと思います。音楽史上、そんな中国で活躍した音楽家の記録や伝説は聞いたことがありません。ましてや、西洋風12音平均律の楽器を、中国人が作曲・演奏できたとは考えられません(作曲・演奏技術は、世襲または徒弟制度でしか伝承されない時代ですから)。 ということで、現実的で空想がしぼみますが、件のチェンバロは中国にあったのではなく、フランスにあって「エキゾチックなデザイン」で受けを狙ったものと思います。 以上は、私の想像ですので、学問的な根拠があるわけではありませんので念のため。
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- mizuki_amari
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フランス語でシノワズリ(中国趣味)と呼ばれるものですね。 (参考)シノワズリ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%82%BA%E3%83%AA バロック時代にはこうした異国趣味が流行しましたが、誤解と偏見に満ちたもので、現代人が考える「文化交流」のようなものではありません。プッチーニのオペラ『蝶々夫人』は日本人から見ると突っ込みどころ満載ですが、あれと同じようなものですね。 日本の場合、16世紀の半ばにスペインやポルトガルの宣教師が、クラヴィコードやヴィオラ・ダ・ガンバなどの楽器を持ち込み、長崎ではオルガンも造られ、グレゴリオ聖歌の楽譜も出版されています。 「天正18年(1590)帰国した天正遣欧少年使節一行は、翌19年3月京に上って聚楽第で関白秀吉に謁し、その面前で持参のリウト(リュート)、アルペ(ハープ)、ラベイカ(レベック)、クラヴォ(クラヴィコード)の合奏を行なった。その際使用されたクラヴォはスペインの貴族がわざわざローマから取り寄せた、真珠貝をちりばめた立派な楽器であったと伝えられている。」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』より) しかし秀吉がキリシタン禁止に方針転換し、家康もこれを継承すると、西洋の楽器・音楽もタブーとなっていきます。 中国でも同様だったと思われます。明朝末期~清朝初期ごろ、西洋で言えばルネサンス後期~バロックの時代ですが、「典礼問題」というものが起こっています。 (参考)典礼論争 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B8%E7%A4%BC%E5%95%8F%E9%A1%8C イエズス会が中国の宗教の伝統を尊重することによって信徒を増やしたのに対し、他の宗派がこれを批判し、ローマ教皇がイエズス会を非としたものです。これに対抗して中国側では、雍正帝(在位1723-1735)のときにキリスト教の布教が禁止されます。 ですから、西洋音楽はあまり深く入り込まなかったのではないかと思います。 その後、清朝では対外交易の窓口を広州一港に限定した管理貿易の方針を取ります。アヘン戦争(1840-42)を機に清朝は開国を強要されますが、このころは既にチェンバロではなくピアノの時代ですね。 20世紀になると、中国音楽と西洋音楽を融合した「民楽(民俗管弦合奏)」というものが奨励され、さらに戦後の共産主義の時代になるとこれが加速され、「文化大革命」によって中国の伝統文化が否定されました。このため、近代以前の中国音楽の姿はよくわからなくなってしまいました。
- tattom55
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美術と音楽(楽器)を混同していませんか。 ちなみに、フランスではチェンバロとは呼ばず、クラヴサンです。
お礼
優雅な家具に飽きた貴族たちがつくらせたものだったのですね。エキゾチックを求めたのですね。たしかに音楽の中にもエキゾチックなものがありました。スキタイ人の行進もその影響だったのですね。