赤ちゃんと大人と動物
こんにちはー。前回の続きみたいですが。
観察の結果なんですが、
赤ちゃんは何も考えてないし、自然のままに生きています。それは大人の悟りを開いた人と同レベルとおもいます。
赤ちゃんは無我夢中で生きています、常に全力投球です。でも大人で無我夢中になる人や、その時間ときたら、驚くほど短いです。全然無我夢中にならない人も多いです(ぼくのことです)自然のままに生きる=全力投球、という意味では、赤ちゃんは動物や覚者や信仰ある人と同レベルです。つまり、動物もレベル高いなーとぼくは感じます。
動物に癒されるのは、動物のほうが、上の意味で大人よりレベルが高いからです。ぼくが親戚の赤ちゃんに癒されるのも同じですねー。
ただ動物も赤ちゃんと同じで自覚がありません。つまり、良くないほうに流されるときに、自分でとめるということを知らない、という意味です。
赤ちゃんの自立が崩れるのは、愛されないことと人格を尊重されないことですが、それぞれ、女性性の不足と、男性性の不足、という風に対応している、と、これは、まだ想像ですが。赤ちゃんは自立している、というのと同じ意味で、赤ちゃんは完全性、「無」、赤ちゃんには感情がないし自分もない、とおもいます。(無我夢中の人は感情を感じる暇も自分を感じる暇もないことは経験上わかってもらえるでしょうか?、全力最高の集中をしているので、そんなものは入る余地がないのです)。
幸福が満ちているときは、感情も何も入れません。だからこその、赤ちゃん=天使、ではないでしょうか?なんか赤ちゃん赤ちゃんと馬鹿みたいですが、僕の考える指針になっているので。
大多数の大人は、赤ちゃんや動物よりレベルが低いですが、一部の人は、赤ちゃんや動物と同レベル、あるいはそれ以上だ、と感じます。それは、人間だけが、生命の中で非常に強い自由度を与えられているからだ、とおもいます。
それは、大脳の発達によって、感じたり考えたり、という自由を獲得した人間だけに許される自由度の大きさ、変化の度合いの大きさではないかと。つまり、人間は、赤ちゃん動物以下ーーいわゆる鬼畜、にもなれますし、赤ちゃん動物以上ーー悟りや神との共存、にもなりえます。この幅の広さは、まさに大脳の発達した人間だけに許されたものだなーとおもいませんか?
言い換えると、選択と認識が生むアイデンティティーの獲得が、やはり、動物にも赤ちゃんにもない、人だけが持つあるいは人間の大人だけが持つ唯一の特権じゃないかなとおもいます。つまり、成長の途中で獲得する、人格の分裂(本音と建前理想と現実など)を、自己同一化&自他同一化=客観視によって、自分の内面としてあるものから、観察対象として自分本体から切り離し、自分のものではないとする、人格への依存を自分から切り出して放棄する。そうしようと選択をする決意する。それによって、自己の人格と対応する世界を完全なものに変える。これらは、抽象的レベルでは、厳密ではないですが、赤ちゃんや動物の高いレベルに戻る、という言い方もできるとおもいます。キリストが言う、赤ちゃんのようでないと天国の門はくぐれない、あるいは、父母未生以前の本来の面目、というのはこちらの流れだとおもいます。ただ上に言ったように、赤ちゃんは完璧ではありません。自覚がない、という点においてです。神とともにいても、その自覚はありません。自覚がないので、いくら素敵なところにいてもそこからふらふら出て行ってしまう。赤ちゃんはアダムとイブです。
言い換えると、赤ちゃんは、未熟であり、同時に完成されている、という2重の性質を持ちます。大人は自覚により2次的な作り出した人格を対象化することによって、この世で生きる人格を生きるための道具として、新たに取り扱うことができるようになる、という過程は、ほかの動物にも赤ちゃんにもできるとは、とても思えません。これは自由と選択と自覚を許された人間だけが可能な、内面的作業だ、と感じるのですが、どうおもわれますか?
だからこそ、赤ちゃんは天使ですが、悟りを開いた人や神を信じる人は、目覚めた人なんだ、とおもいます。ただの(?)天使の人と、天使のアイデンティティーを持つ人の違いです。赤ちゃんには生死がないですが、悟った人は、生死がないことを「知っています。」たぶん。
言い換えると、人はみな赤ちゃんとして愛を胸の中に持って生まれてきますが、生きてる間に、その愛を外部全体に対して告白して死ぬかどうかは、人しだいだなーとおもいます。つまり、赤ちゃんとお母さんを比べてみると、赤ちゃんは世界全体に対して愛を告白してますが、お母さんは残念ながら赤ちゃんに対してのみです。この違いは、赤ちゃんの自立が崩れる理由の一つです。お母さんだけじゃなく赤ちゃんに接するすべての人ですが。想像ですが。よろしくお願いします。