利己主義は高貴か?――ひとはどこまで阿呆になれるか
▼ (?:利己主義は高貴なり) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) 無邪気な人々を不快にするという危険を冒して 私は言明する。
(あ‐1) 利己主義は高貴な魂の本質に属する
・ der Egoismus gehört zum Wesen der vornehmen Seele
・egoism belongs to the essence of a noble soul
と。
(あ‐2) 私が利己主義というのは
《われわれがある》如き存在にとっては
他の存在が本性上 臣従してその犠牲となるべきである
・ dass einem Wesen, wie „wir sind“, andre Wesen von Natur
unterthan sein müssen und sich ihm zu opfern haben.
・ that to a being such as "we," other beings must naturally
be in subjection, and have to sacrifice themselves.
というあの揺るがしがたい信念を指すのだ。
☆(あ‐2-bragelonne) ~~~~~~~~~~~~~
《〈われわれがある〉如き存在》:意味がよく
分かりません。
《われわれなる類としての概念には 人類そして人類の
一員という所謂る類的存在なる理念がやどる。そのような
公的・公民的存在にしてかつ利己的に行動する》といった
意味なのでしょうか?
つぎに敷衍されていましょうか?
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(い) 高貴な魂は自らの利己主義というこの事実を何の疑問を抱くこともなく またそこに峻酷・恣意の感情をもつこともなしに 却(かえ)ってそれが事物の根本法則のうちに基礎をもつものであるかのように解する。
☆(い-b) これだけではまだ分からない。
(う) ――これに対する名称を求めようとすれば この魂はこう言うであろう。《それは正義そのものである。 „es ist die Gerechtigkeit selbst“. "It is justice itself."》と。
☆(う-b) さっぱり分からない。
(え) 様々の事情のために このような魂は始めは躊躇するが 自分と同等の資格を与えられた者が存在することを承認する。それはこの位階の問題について決着をつけるや否や 自分自らに接すると同じように確かな羞恥と細やかな畏敬をもって これらの同等者や同格者たちと交渉する。
☆(え-b) ~~~~~~~~~~~~~~
これは 飛躍すると あの法華経における《唯仏与仏――
ブッダはブッダとのみ話が分かる――》という話に通じている
かに見える。かの有名なるゴータマ・マジック。
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(お) ――それはあたかも すべての星辰が通暁している本有的な天体力学の法則に従うのと同様である。
☆(お-b) どうもブッダにならなければ おまえなんかに分かるもん
かと言われているみたいだ。
(か) 自分と同等なものとの交渉におけるこうした繊細さと自己制限 これがその利己主義に更に付け加わる一片である。
☆(か-b) 《制限》が 言葉としてだけでも 出て来た。利己主義に
対する自己制限であるそうだ。
(き) ――あらゆる星辰はこのような利己主義者なのだ。
(く) ――高貴な魂は自分の同等者たちのうちに またそれが彼に与える諸権利のうちに自分を畏敬する。それは 栄誉と権利の交換がすべての交渉の本質として 同じく事物の自然的な状態に属するものであることを疑わない。
☆(く-b) これはどうも 信長と秀吉と家康とのあいだでは 話が通じる
と言っているみたいである。果たしてそうか? どうなのか?
(け) 高貴な魂は 自分の根底に潜む敏感な本能から 自分の取るだけのものを他にも与える。
☆(け-b) ~~~~~~~~~~~~~~~~
とすると その《自己ではない他者への利益を図る》と
いうのは――《本能から》とすれば意識も自覚もなくという
ことなのだろうか? はそれとして問うておくとして――言わ
ば その《利他》の行為も大きく《利己主義》の思惟と行動と
の中に含まれるという意味だろうか?
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(こ) 《恩恵》という概念は 《同等者の間では》何の意味も芳香も有しない。上からの贈り物をいわば自分の上に注がれるままにし 雨滴のように渇望して飲みほす一種の崇高な者もあるであろう。しかし高貴な魂は このような技巧や身振りには一向に堪能ではない。その利己主義がこれを妨げる。すなわち それはおよそ見遙かすか 或いは見下ろす。――それは自分が高みに立っていることを知っているのだ。――
☆(こ-b) ~~~~~~~~~~~~~~~~
ということは・・・
(i) 《恩恵》を受けそれを頂戴することは 利己主義で高貴な
魂にもある。
(ii) ただしそれは《およそ見遙かすか 或いは見下ろす》とい
ったかたちを採る。
(iii) 《それは自分が高みに立っていることを知っている》からだ
と言う。
(iv) 《見下ろす》場合は そのまま文字と意味とが一致する。
(v) 《見遙かす》場合というのは どういう事態か?
(v-1) 《同等者》というのだから 相手も自分も《同じ高みに
立っている》という意味か?
(v-2) いや 同等者なのだが 見遙かすほどの高みにいる
相手もある場合がある。のか?
(vi) いづれにしても 《贈り物を雨滴のように渇望して飲みほす》
ことは《利己主義ゆえに》しないが 頂戴するものは頂戴する
のか?
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(『善悪の彼岸』 木場深定訳 1970/2010改版 § 9 高貴とは何か 二六五)
独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/JGB
英訳:http://www.lexido.com/EBOOK_TEXTS/BEYOND_GOOD_AND_EVIL_.aspx?S=10
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☆(さ) 利己主義とよぶ高貴な魂は あるのですか?
(し) または ひとはどこまで阿呆になれますか?
お礼
ご回答いただき誠にありがとうございます。 「いったい自分は何のために生まれ、そして生きているのか」と真剣に苦悩している人がいます。 そういう心理状態の人は、たいてい「自分自身のために生きて当然。他人のために生きるなんて馬鹿げている。」と信じ続けてきた人が何かのきっかけで壁にぶつかったか、又はその逆に「自分が本当にやりたいことを我慢しすぎて、自分を大事にしなかった」人だと思います。他人であれ自分であれ、人を大事にしない人は皆同じ悩みに出会うということですよね。