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尾頭付き
祝い事で 尾頭付き・・・を準備することがよくありますが、これにはどういう意味があるのでしょうか? おくいそめで、準備しようと思ってました。 おかしらとは、御頭ではなく、尾頭だったんですね。 鯛はめでたいとして・・尾と頭がついてる魚には祝うこととなんか関係あるのでしょうか?
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下のURLの一番最後にmirumiru34さんと同じような質問がありました。 御頭(尾頭)つき、というのは 祝い事の時によく使う言葉です。 お正月料理の時「鯛」が一匹出されたり、結婚式に「鯛」が一匹籠に入っていることがありますね。 辞書にはこう載っています。 おかしらつき:尾も頭もついている丸のままの魚。神事や祝い事の膳につける。かしらつき。(goo辞書参考)
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- neil_2112
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本来、めでたい事やお祝い事というのは人間の力だけで成就できるものではありませんから、必ずといっていいほど神が介在してきました。神への感謝、報告、祈願が祝い事の根本にあるわけです。そして「尾頭つき」というのは、#1のご回答にもあるように、神へのお供えの形態だったのです。 魚に限りませんが、「尾頭つき」つまり自然に存在するままの完全な形で生き物を供することには、本来神の所有する生き物をそのまま神に捧げるという意味があります。 わが国では、自然を通じて神と人がなだらかに連続した関係にあると受け止められてきました。日々の糧は西洋の牧畜などと異なって、山野河海に存在する目に見えない力が各々の「いのち」として表れているもので、その力を神と観念したわけです。 従って、古代の「贄(ニエ)」でもそうですが、神に供えられる尾頭つきの生き物には、「命の表れをそのまま命の根源に返す」、「神のものを神に戻す」という意味が含まれていたわけなのです。 また、尾頭つきには、無傷すなわち「直前まで生きていた」という意味が込められています。古来の神祀りには、新鮮な山野の恵みを「生け乍らに」、つまりその場で調理して山野におられる神に食べてもらうという感覚が基本にあったのです。従って新鮮さを意味する姿としても尾頭つきは重要な意味をもっていました。 そして、そこで供えられたものを共に「食べる」という行為がとりわけ重要でした。神のものを神の目の前で食べることで、人は言わば生命エネルギーのようなものを共にとり込み、神とつながることができる、という強い感覚を持っていたからです。 柳田国男という民俗学者はかつてこの習俗を日本の祭りの特徴のひとつとして重視して、「神人共食」と名づけています。そこには、伝統的な言い方で言えば、万物を育む「むすび」の霊力が発揮されたのです。 お食い初めの式も例外ではありません。生後百日目のこの式では、赤ん坊が食べられるはずもないご飯や料理が出され、しかもその子供に食べさせるまねをするのが常となっています。 これももともと、「産の神」などと呼ばれて子供のお産から寿命全般をコントロールすると考えられた存在に対して食べ物が供えられていたわけで、その力にあやかり互いに生命力を強化しあうためにそのお供えのお下がりを食べていたことが始まりです。赤ん坊はこの儀式で、真似事であれ神の霊的な生命エネルギーを口にすることでその後の健やかな成長を祈念されたのです。 このように、神に捧げられたものが常にその場に集う人間に食されていたわけで、祝いの場で神前に供える「贄」と、そこに集まった客をもてなすための「食事」はもともと大変近い関係にあったことがわかるでしょう。 ですから、その場から「神」の存在が薄くなれば、当然尾頭つきもはなから人間のために準備されたものと受け止められるようになっていったのは、ある意味で当然と言えるわけです。 特に尾頭つきのものは、贅沢にもまるまる一匹が供されるわけですし、しかも供されるその直前まで生きていた、という新鮮さの証明でもありますから、最上級のもてなしのシンボルとなり得ます。そんなわけで尾頭つきは祝いの場にふさわしい「縁起物」として、神がいなくなってからも寿命を保ったのでしょう。
- kojitti
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こちらをご参照ください。