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愛とはなんでしょう?

愛とはなんでしょう? 初め僕は愛とは『信じること』だと思っていました。でもそのうち、愛とは『理解』だと思うようになりました。 でもよくよく考えると『共にいると不思議と生まれる幸せ』であるとも思えます。 まじめな質問なのですが、愛とはなんなのでしょう?

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  • lupan344
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回答No.1

48才、既婚男性です。 私の意見としては、愛とは生きる為に必要なものって事かな。 これは、人それぞれ違うから、結論ってのは出ない事だよね。 幸せとか苦しみとか、あらゆる感情が愛から生まれるような気がする。 愛がいらなくなったら、生きていけなくなるような感じがするね。 君の質問は、恋愛に関してだよね? 恋愛だけなら、もしかしたら、無くても生きていけるかもしれないけどね。 でも、恋心とか愛情はいつも持っていたいような気がするね。

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  • para3gathi
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回答No.7

愛とは相手を大切にする、したいと思う気持ちです。 ここは恋愛カテゴリーです。愛とペアになっているのが恋。そして恋と愛との両方が備わっているのが恋愛です。恋愛の恋と愛とは座標軸が異なります。恋の先に愛がある訳ではなく、恋と愛とは直行するXYの座標の関係です。 愛車、愛社精神の「愛」は大切にする事を意味します。「恋車」の言葉はありません。これからも恋と愛の違いが分ると思います。 生物の宿命として子孫継承の役目を負っているものの発情期を持たない人間は、有性生殖のコストを埋めるべく、恋愛のメカニズムを身につけました。 もう少し詳しく説明しましょう有性生殖は雌雄の合意がなければ成り立ちません。この合意が必要である事を有性生殖のコストと言います。一般の哺乳動物は発情期を持ち、雌雄が一斉に繁殖活動に駆り立てられます。人間は発情期から開放されました。何時でも可能はいつも不可能と同じです。 発情期に代わって人間は恋愛をします。遺伝子的にも自分に相応しく、良い子孫を残せそうな異性を見付けて、性的欲望を感じます。これが恋です。 高度に発達した生命体である人間は、生まれた子供の成長に長期間を要します。恋の結果として選んだ伴侶、生んだ子供、作った家庭を大切にする必要があります。それが愛です。 自分に取って大切な人だと思ってお互いに信じ合い、助け合い、楽しい時にはその楽しさを共にし、苦しい時や病める時には労り合い、慈しみ合って苦しさと悲しさを半分に減らす。茨の道があるかも知れない長い人生を共に歩もうと約束し合って、人生を共にする気持ち。それが愛です。 恋は求めるものでしょう。でも愛は与えるものです。 私の顔写真欄のマークがそのシンボルです。実はあれは重水素の原子核の模式図です。中にクォークが3つ入っている青い丸が中性子で赤い丸が陽子。小さな赤丸はグルーオン(糊粒子)と呼ばれる中間子。グルーオンの交換で「強い力」と呼ばれる核力が生まれています。 イメージ的に言いましょう。糊のボールを投げ合うと、糊が糸を引くでしょ。その糊の糸で強く結び合います。 原子核内の中粒子がグルーオンの交換による強い力で結び合っている様に、人間の男女は愛を互いに与え合う事で強く結び合っています。奪うのではなくて与えるんです。そしてその愛の交換が無くなった時に、カップルは崩壊します。 (注)愛人の愛は何なのかと言われそうなので、先に言っておきます。愛人とは本来大切な人の意味。中国語では妻を意味します。不倫の相手は「情人」です。日本語が間違えているだけの話です。

  • dogs-k
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回答No.6

某アニメの受け売りではありませんが「愛」と言うのは厄介なもので人によって形が変わるのですね。 人によって見方考え方が違うので困ってしまうのですが無理やり型にはめ込み表現するならばそれは 「補完し合う事」に集約されてしまいます。 補完しあうとは共有・融合・取り込む・などいってみれば合体となるわけですが説明的にはかなり噛み砕いて話しているので反って判りにくいかもしれませんが・・・(笑) 判りやすくすると少々脱線するのですがこの考え方を多くの宗教(カルト含む)が利用しているんですね。 愛≦信仰心と言う図式が出来上がると結果的に世の中を不幸にしているんですが、その強さゆえに 利用される「信仰心」こそ無二一つのものとして愛のべつの形になるわけです。 ※技術的な方法としては「洗脳」と言う方法が有効で洗脳された人は自身が無くなっても神と   一つになっているからまったく問題ないと信じてしまうんですね、「カルト」恐るべし! 世の中で一番強いものは「個」です。漢字を変えると「己」としてもいいかも知れませんがこれはすごく 強いです!壊れないし割り切れない。もし壊れるならば「無」になるわけですが其処まで行くと哲学的になるので話止めますが。 さて、「愛」とは何でしょうと問われて「赦すこと」「受け入れること」「理解すること」など色々な 表現はありますが、それら全て一つにまとめて「補完」と言うことに纏めることが出来るので(かなり 強引で理不尽なのですが)そう表現したわけです。では補完とは何かというとそれは引っ張ってきまし たがやっぱり「個」なんですね。 一つになることで強くなるわけですが人一人では限界があるわけで、そこで相手を探して取り込で一つになると言う行為が恋愛な訳です、相思相愛であればあるほど相手のしたことについては無条件で赦せる関係になる。 お互いが自分自身の一部として認識する事(自分の失敗に対して非難し続ける人は稀にしかいませんよね) それは一つになる。つまり「個」なのです。物理的には一つではないので「絆」とも言いますが、人の場合 「個」には単位があって「己」→「カップル(恋人・夫婦)」→「家族」→「一族」→「集落」→「村」→ 「街」・・・「国」→「人類」となりこれをすなわち「真理」と言う人もいます。 人間は弱い存在なので知恵を使って「個」という強い状態のまま大きくなろうと求めてしまう。 つまりは「欲」が強いのが人間の駄目なところで、その結果無理に「補完」しようとした結果の反発が 「失恋」であったり「紛争」であったり数え切れない「負」の単語の「群れ」なのです。 なので、戦争が絶えない主な理由は結局其処にあったりするのですが「真理」は一つですからまあつまり・・・・・。 そういう事です。 「愛」は「真理」の一部で一つになろう(補完しあおう)とするに人の欲求の表現のひとつで1つから始まって一つに戻る過程の一部分であると・・・・身もふたも無いなぁ(苦笑)。

回答No.5

愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。 主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。 しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。 そこに於て究極的に、真の愛は、完全なる科学(原理認識=社会生命としての他我化)である。

  • ray_ray
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回答No.4

愛とは自分を与えることです。 ある神父様が、日本語だと「かけること」ともいえるとおっしゃっていました。すなわち、相手のために時間をかける、思いをかける、などです。 自分の時間・思い・また物質的なものも含めて、自分にとって一番大切である自分自身を、相手に与えることが愛です。 そのような愛はなかなか実現させるのが難しいのですが、だからこそ意思を持って愛するのだと教わりました。自然に流れ的に愛するのではなくて、愛そうと心に決めて愛するのだと。愛には決心が伴うものです。

  • kadowaki
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回答No.3

>初め僕は愛とは『信じること』だと思っていました。でもそのうち、愛とは『理解』だと思うようになりました。 >でもよくよく考えると『共にいると不思議と生まれる幸せ』であるとも思えます。 こういう質問に対しては、どうしても《人それぞれ》の考えが寄せられがちになるでしょうね。 こういう問題を考える際に本当に大切なのは、自分がどう考えるかということではなく、自分の考えが拠り所とする根拠なり、源泉なりを探し当てることの方ではないでしょうか。 思うに、日本語で《愛》とは何か?と考える場合、歴史的には、中国渡来の漢訳仏典に出てくる愛欲、愛着、愛執、愛染といった、人間の煩悩を意味する熟語を通じて、その本質なり、内実なりを理解してきたという事実から出発すべきではないでしょうか。 で、質問者さんが想定なさっているような意味での《愛》は、実は明治になって流入してきた西洋語(love、lieben、aimerなど)の訳語として、仏教用語の《愛》を宛がうようになって以降、徐々に明治の社会にも普及していったわけです。 その立役者は、やはり明治になって入ってきたキリスト教のようですから、今日、あまりにも恣意的、勝手に使われすぎてきたせいで、あまりにも多義的、曖昧になってしまった《愛》の正体に肉薄するには、やはり『聖書』のコリント書簡、第13章のパウロの言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。 パウロによると、この世で最も尊いものは愛・信仰・希望の三つであるが、その中でも一等尊いものは《愛》であるということのようです。 この《愛》は、見返りを求めない《愛》、つまり無償の《愛》のことです。 これをより具体的に説明すると、《愛》とは、たとえば他者との関係において、GIVE&TAKEではなく、GIVE=TAKEの姿勢を取ることと言えるのではないでしょうか。 ところが、人間一人一人の個人の権利は最大限尊重されるべきという、いわゆる個人主義、民主主義を信奉する現代社会において、いったい誰が、本当の意味での《愛》に生きることができるかと考えますと、それはほとんど不可能と言わざるを得ませんよね。 失礼ながら、質問者ご自身だって、試みに他人に対して無償の《愛》を実践なさってみればお分かりになるはずですが、すぐに一方的な自己犠牲に対して不平不満を漏らすエゴ(我欲)が頭をもたげ始めるのに気づくのではないでしょうか。 「どうして、自分はこんなに他者を愛するばかりで報いられないのか?」と。 >まじめな質問なのですが、愛とはなんなのでしょう? われわれは、遠い昔、《個人の権利》を獲得するために、その代償として《愛》を犠牲に供してしまったのではないでしょうか。 その限りにおいて、もはや現代人は本当の意味で他者を愛することができなくなったのではないでしょうか。 そうと自覚することこそが、実は本当の意味での《愛》に生きるための第一歩を踏み出すことになるのではないでしょうか。

  • taka-aki
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回答No.2

相手を許すことじゃないでしょうか。

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