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めぐりあう時間たちのこと

なにか考えさせられる映画でした。今も考えています。観た日より、翌日、また翌日と、うまく言えないけれど、心になにか胸騒ぎのような、波紋のような、感じ方は、人それぞれでしょうが・・・。 ローラとクラリッサは、ヴァージニアの小説の登場人物!?とか、ローラはバージニアの姪!?などの話を耳にしましたが、本当でしょうか? 私は三人のつながりって、それだとは思いませんが、どうなんでしょうか?どなたか教えて下さい。 ローラとクラリッサは、リチャードを通してめぐりあうけれど、ヴァージニアとは、どういう関係?でしょうか。三人がダロウェイ夫人って事で良いのでしょうか? どなたか教えていただけませんか?

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  • ベストアンサー
  • ribisi
  • ベストアンサー率28% (247/864)
回答No.1

いろいろな見方ができるのが、優れた映画だと思います。 それぞれの観客が感じたままでよいと思いますが、 僕の考えでは、 >ローラとクラリッサは、ヴァージニアの小説の登場人物!?とか、ローラはバージニアの姪!? いずれもNoだと思います。 僕はこんな風に感じました。自分のホームページに書いた 感想メモです。長いです。 この映画を俯瞰すると、三人のヒロインそれぞれの物語が絶妙なバランスでシンクロし、一つに収斂していくという全体像が見て取れる。共通する価値観をもつ女性が、時代を経て変わっていく社会環境の中で、別の生き方をしているものとして描かれている。 ヴァージニアは、その天賦の才能と引き換えに、神経衰弱を患い入水自殺。ローラは、自分の生を生きるためには、家庭を捨てるという選択しかなかった。クラリッサは、未婚ながら母であり、同性の恋人と暮らしている。 時代が現代にシフトしていくにつれ、社会環境は徐々に個人の自由を許容するようになっていくが、その実彼女達の心中は、ダロウェイ夫人のごとく、「パーティーを主催しても、彼女は幸せではない」。三人のヒロインを通じて、その時々に生きる女性たちから、変化することのない普遍的な部分を掬い取って見せた、それが自分の人生を生きるということである、というのが、この視点から見た見方。 なかなか重厚なドラマであり、時間と空間が交錯するスリリングな構成となっていて、いわゆる凡百の「自己探求の物語」とは一線を画している。でも、僕が感動したのは、もう一つのパースで映画を眺めたときだった。それは、ヴァージニア・ウルフと、リチャード、二人の作家の創造性と、その中心にいるローラ、という構図である。 ヴァージニアは、『ダロウェイ夫人』を執筆中で、小説中のヒロインを現実世界に投影したのがローラ。そのローラの生き方に強く影響された息子リチャードもまた、創作活動を通じて、この世界のすべてを書き記そうとする。だがそれは叶わず、「まだすべてが絡み合ったまま」。 ローラを中心として、ヴァージニアとリチャードは一本の線で結ばれている。それは表現者としての運命、ひとの心の奥底にある闇を形にするという、身を削るような創作活動であったことだろう。朝食を取らず、授賞式には出ず、田舎でも暮らせず、やりたくないことはやらずにいても、その心は決して満たされることはない。一度でも心の闇に捕われたら、そこから目を背けることができない。 彼らがどんなことを書いたのかは観客にはわからない。ヴァージニア・ウルフに関しては『ダロウェイ夫人』が実際に存在しているからまだましだが、リチャードの著作は、「書くのに10年かかった、難解な自伝的小説」ということしかわからない。だが、芸術家が表現したいものというのは、本質的にはただ一つ、「ひとのこころについて」だと思う。 心の奥底には闇しかないのなら(内省していても希望はやってこない)、そしてその闇が人間性というものならば、人間は本質的には「狂って」いて、外部と繋がることで、かろうじて正気を保っている。きっと、人が生きるということは、ナイフエッジの上を歩くようなものなのだろう。そのエッジのぎりぎりのところで、なにかを拾い上げて文章にして書き表す。作家の創造性は、精神の極めて限界に近いところで発揮されるものであるということが、ヴァージニアの創作過程や、ボロボロになったリチャードの姿を見ていて伝わってきた。 一方、彼らの作品の中に生きているかのようなローラだが、彼女は、人が生きるということに、漠然とした意識を向けている。なぜ、なんのために生きるのか、という形而上の問いを発している。少なくとも、今の家庭生活では、自分は死んでいるに等しいと感じている。キティの健康上の心痛すら、ローラにとっては、生きている証と思えたのではないだろうか。 ひとが背負う苦悩こそが、生の実感、なのかもしれない。それは、ヴァージニアの「田舎で生きるより、ロンドンでの死を選ぶ」というセリフと呼応している。ああ、なんてあなたは生きているの!と、ローラはキティのことを愛しくなって、あのキスになったのだと僕は感じた。 そう、確かに、抑圧された感情の爆発として、同性愛を提示するのはわかりやすい。そして、実際そういう視点でも描かれていて、そういう見方ができるというのは、この映画の間口の広さを示している。ただ、ローラが家庭を捨てる理由が、イコール彼女はレズだったから、という風に観客に思わせてしまったら、作品の深みが一気に削がれたことだろう。 2001年のヒロイン、クラリッサについて。三人のヒロインの物語を並列に見るのではなく、ローラを中心とした点対称の構図で見てみると、クラリッサの役どころは、ヴァージニアの夫レオナードだ。もちろん、ヴァージニア-ローラ-クラリッサ、というラインも成立しているし、物語の収斂先を見届けてもいるので、全体の目撃者的な立場でもある。 出版社を興したレオナードと、編集者であるクラリッサ。どちらも、作家に非常に近いところにいて、創造する苦しみを理解している人々だ。作家が闇を見つめていて、自分との間に深い溝ができていることも知っている。手が届かないことがわかっていながら、愛さずにはいられない。過去の幸せから逃れられず、彼らはまた、作家とは別の苦しみを背負っている。 映画で登場人物の心象描写を行う場合、役者の演技や台詞は別として、演出上の方法としては、主人公のナレーションを入れるとか、抽象的な風景を挿入するとか、ミュージカルの手法を使うとか、といったやり方があるが、この映画では、ローラの心象を、ヴァージニアの創作過程における独白、という形で表現していて、リチャードとクラリッサのダイアログも、それを補強している。 作家は心の闇から逃れられず、死への誘惑に抗することができない。編集者は、自ら表現する術を持たない。ただ一人、ローラだけが、死の淵を覗き込み、それに恐怖しながらも、強い意志で飛び越えていってしまった。小説中のヒロインさながらに行動に移してしまったローラは、そういう生き方しかできなかった、という意味で、ヴァージニアやリチャードと違い、表現する必要がない人種である。 リチャードは、自伝的な著作の中で、母親を死んだものとして描いている。母のことを理解できなかったからではない。ローラが、文章では表現しきれない場所に行ってしまったということは彼にはわかっている。そこにこそ核心があるのだと気づいている。それでも、それをどうしても書くことができず、自分の創造性の限界を思い知らされているのだ。 ヴァージニアはリチャードの上をいく。「ダロウェイ夫人」は自殺を思いとどまり、「詩人」が破滅することを見透かしている。「ダロウェイ夫人」=ローラを生かしたまま苦難の人生を歩ませることが、彼女が犯した罪への贖罪となる、と素直に解釈してみるが、だが晩年のローラの顔に刻まれた豊潤な個人史はどうだろう。彼女は、確かに非常にわかりにくい精神性を持っているが、それは、本質的な人間性というものを、ダイレクトに反映しているのではないだろうか。

ryo_egami
質問者

お礼

さっそくのお返事有り難うございました。私は、久しぶりに素敵な映画に出会えて、喜んでおります。子供のお弁当を作りながら、たくさんの洗濯物をたたみながら、そして仕事をしながら、ヴァージニアの苦悩の表情ローラの悲しそうな笑顔が浮かんできます。生きること、生きていくということ、考えさせられます。原作者、監督、俳優、脚本、とても素晴らしく感じます。一度では、音楽の素晴らしさに気がつきませんでしたが、是非もう一度見たいと思います。そして、原作も読んでみるつもりです。素敵な文章を有り難うございました。男性には、あまり受け入れられないかと思いましたが、私の偏見でしたね。(お返事に、僕とありましたのでたぶん、男性の方だと勝手におもっております。)

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