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奇跡が起こるようにする為には、なにか方法はありますか?
奇跡が起こるようにする為には、なにか方法はありますか? 私の大切な人が病気です。 どんなに辛くてもなにも言わず耐えているので、本当に可哀想です。 どうしてあげる事もできないし、少しでもよくなってくれればと願うことしか できないので悔しいです。 私は、奇跡というものを信じています。 でもその奇跡というのが起こるには、どうしたら起こるんでしょうか? 変な質問ですが、よろしくお願いしますm(_ _)m 大切な人に奇跡が起こって、早くよくなってくれればと思います。
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- reborn1992
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産業能率大学出版部から発行されております、ジョセフ・マーフィー氏の著者を読んでみて下さい。
- michael-m
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何も方法がないのに起きるから奇蹟であって、方法があればただの治療法です。 第一に貴方が元気を吸収すること。貴方が元気でなければ、相手に元気は伝わりません。子供に元気を貰うのは子供が元気を一杯持っているからです。 看病疲れをするのは、相手に元気を与え続けて消耗するからです。 つまり、あなたの元気が一杯あれば、相手に分けて挙げられます。 第二に出来るだけ触ってあげること。 これは一番相手に元気が伝わります。「手当て」の語源だというのが有名ですね。 第三に、自分の信仰に自覚を持つこと 信仰とはどこかの宗教に入ることではありません。それは信心です。 信仰とは第一に神霊、魂の存在を信じる事です。 大体、信仰心が無ければ人間もただの化学反応の塊でしかないでしょ。 可哀想も減ったくれも無いはずです。可哀想と思うのも脳の作用でしかないのですから。 可哀想に思うのは、人間の心の中心に信仰があるからです。 化学反応に奇蹟は絶対にありえません。 毎朝太陽に拝んで、胸を広げエネルギーを一杯頂く。 その足で相手の人の所に行って手を握ってあげる。太陽の暖かさを与えてあげる。 翌朝エネルギーを頂いたことを感謝して、再び繰り返す。 (これはせいぜい昼までにして下さい、午後はエネルギーを奪います) これが本当の「信仰」です。信仰とは感謝と奉仕なのです。 困った時の神頼みは通用しません。一生何があっても信じ続けるのでなければ信仰とはいえません。
あります。 それは「愛」です。 しかし、言葉にすれば「愛」ですが、「愛」とは言葉ではないので・・ ここの所がとても難しい。 「愛」の手前に「感謝」がありますね。 あなたが男性か女性か良く分かりませんが、その相手の方と出会えた事に先ず感謝ですね。 親子とか兄弟であるなら、その縁にも感謝です。 相手の方が病んでいて、それをどうにかしたい・・と思える心がある、あるいは芽生えた事も相手があっての事・・それも感謝でしょう。 あなたには、相手を思いやる心があった・・と言う事を知れたのも相手が居たからこそです。 全ての事に感謝・感謝・感謝です。 一寸辛口・・・ >>私は、奇跡というものを信じています。 でもその奇跡というのが起こるには、どうしたら起こるんでしょうか? これは矛盾ですね、奇跡を信じているのなら、必ず「奇跡」は起こるでしょう。 しかし、どうしたら・・と問うている時点で、信じているの? と・・・なりますね。 信じると言うことは、その様な事ではありません。 信じると言うことは、全てなのです。 条件など付けません。 99%は信じている・・等と言う事もありません。 信じると言うのなら、奇跡を何処までも信じなさい。 それが「愛」に通じることでしょう。 あなたの、感謝の心は、言葉にしなくとも相手の方に通じる事でしょう。 感謝・・これも言葉ではないですよ・・ 最初は言葉・・思い浮かべても良いですが・・・ 感謝とは、あなたの心の状態です・・本来言葉では言い表せる程度のものでもないです。 心の状態が感謝であるなら・・以心伝心。 相手に伝わらないはずがない。 感謝の先には「愛」とそして「奇跡」が有ることでしょう。
- juin21
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確かに、お一人目の回答者様がお答えになっていらしたとおりですね。願って起こすことが出来るものであれば、人はみな軌跡を起こします。 今回、質問者様の大切な方がご病気とのこと。ご病気であるご本人がいちばんお辛いでしょう。でもそうした大切な方が苦しまれておいでになるのを目の前になさっている質問者様が、何もしてさしあげられないという、歯痒い思いでいらっしゃるお気持ちもお察し致します。 昔い民話に、「養老の滝」のお話ががありますね。 余命わずかな父親に大好きなお酒を、孝行息子は飲ませてやりたいと思いますが、貧しさからそれをかうお金が無く…。滝の前で泣き暮れていると、滝がお酒に変わったというもの。 かなり昔の映画ですが、私が観て感動した確かイタリア映画だったかと思うのですが、「ミラノの奇蹟(奇跡?)」という作品があります。 これはどこか、「賢者の贈り物」に似た内容でしたが。 黒人の男性、白人の娘が恋に落ちます。しかし二人は、お互いの肌に色の違いに今一つ壁のようなものを感じています。 そんな二人の前に、真っ白な鳩をもった青年が現れます。この鳩を胸に抱き、願い事を唱えると叶うと言うのです。 そこで男性は青年から鳩を借り、「自分を白人にしてほしい」と願います。 別なある日、娘はこの青年から鳩を借り、「私を黒人にして!」と願いました。 喜び勇んで広場で落ち合った二人は、白人の男性と、黒人の娘になってしまっていました。 前述の「賢者の贈り物」は、皆さんもよくご存知のお話かとも思います。 貧しい夫は、長くて美しい髪をもつ妻のために、その髪を飾る櫛を贈ろうと思います。しかし貧しさゆえにそれを買い求めるお金が不足していました。そこで夫は自分の懐中時計を売り、妻への櫛を買いました。 妻は、夫の懐中時計の金の鎖が古くなり今にもちぎれそうなので、新しい鎖を贈ろうとしますが、やはりお金がありません。そこで妻は、自慢の長く美しい髪をバッサリと切り落として売り、それで得たお金で金の鎖を買いました。 二人がお互への贈り物を差し出したその時。。。 夫はもう、懐中時計を持ってはいず…、 妻にはもう、櫛で挿げられる自慢の美しい長い髪はありませんでした。 《このふたつのお話が爽やかな感動を与えてくれるのは、何故でしょう?》 ながながと書き込ませていただいたのは他でもなく、感じ取っていただきたいと思った点はここにあるのです。 こうした映画や物語のように、現実では奇跡は起こせません。偶然に偶然が重なり、奇跡に至近した現象は稀に起きることはありますが。 でも…、 現実を真っすぐに見据えながらも、奇跡を願う気持ちも捨て去らずにいることは、希望を切り捨てない証しへと繋がってくれてもいます。この姿勢も時には大切だと感じます。 その延長線上に、『偶然の最上級が鎮座してくれていることを信じてみては如何でしょう?』 現実から逃げない。今が辛い現実を抱えている時期だからこそ、僅かなスリットから射し込んでくる希望の光が、質問者様と、大切な方に微笑みかけてくるはずです。 希望を見失わない人の前には、奇跡の予兆はいつも傍に居てくれます。 どうか、ご病気を克服されますよう、心からお祈り申し上げています。
お礼
juin21さん、はじめまして。 とてもいいお話、ありがとうございました。 拝見しながら、涙が出ました。 どのお話にも『愛』というものが、奇跡を起こした ように思えました。 そして奇跡を信じて願うこと事ですね。 私のために書いて下さったことに感謝しています。 たくさん書いて下さったのに私の返事が短くごめんなさい。 私の心にはちゃんと届いています。 本当に有難うございました。
- bawmystar
- ベストアンサー率15% (6/39)
奇跡は結果として奇跡になるだけで、 起こす方法がわかるならみんなそうしますし、 そんなことが頻発するならそれは奇跡ではありません。 側にいて身の回りの世話そしてあげることが本人の救いにはなるとは思いますけど。 後はその方面の名医にかかることが出来るようお金を稼ぐというのも現実的です。 現実逃避しないことがその人のためです。
お礼
bawmystarさん、はじめまして。 bawmystarさんの言われるとおり、わかるならそうしてますよね。 私もそばにいてあげる事が一番いいと思っています。 ずっとそばにいるつもりです。 bawmystarさん、有難うございました。
お礼
niitakayaさん、はじめまして。 『信じると言うのなら、奇跡を何処までも信じなさい。 それが「愛」に通じることでしょう。』 というお言葉、心にズシンときました。 私は、niitakayaさんが言われるとおり信じているつもりで 信じてなかったのかもしれません。 『愛』というものが奇跡を呼び寄せるのですね。 そして、すべてのことに 『感謝の心』ですね。 奇跡を何処までも信じ、たくさんの愛で支えられたらと思います。 私のために、書いてくださったことに感謝します。 本当に有難うございました。