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宗教と教育をテーマにエッセイを書こうと思うのですが。

宗教と教育をテーマにエッセイを書こうと思うのですが。 エッセイの基本的なことについて質問させてください。 こうした文化や宗教についてのエッセイはどのように自分の立場を決めて展開させていけばいいのでしょうか? 文化なのでその土地の人々の信じる道があって私たちは一概には、それがいいか悪いかいうことは難しいようのもいます。ではどのように自分の立場をはっきりさせるのでしょう? 最近、いろんな資料を読むと今まで自分が信じてきたものがぐらついてきたように感じます。 初めはこの宗教は明らかに差別ではないか、だから解決策を見つけたくて研究を始めたのですが、そもそも差別ではなくて私の価値観と彼らの価値観が違うので私自身は何も言えないんかもしれないと。 では、何のために、他者はその文化に入って援助という仕事をするのでしょう? 文章が雑ですいません。(思いつくまま書かさせていただきました、自分の正直な気持ちです) ご助言頂ければありがたいです。

みんなの回答

noname#125540
noname#125540
回答No.3

何の目的で書くエッセイなのか分かりませんが、 自分なりの立場を決めて書くしかないでしょう。 ボビー・バレンタイン氏がロッテの監督時代に雑誌のインタビューで語っていました。 日本語の「違う」には「違う」と「間違い」両方の意味があるが、 英語ではそれぞれ違う意味だ。 differentはwrongではない。と。 (ただし、西洋人にもdifferentなものを理解できず、 wrongだと感じる人も多いと思いますが・・・・捕鯨問題などを見れば分かりますよね) 他の文化について考察したり、自分の意見を述べるのは、 正しいか・正しくないかを断じるのとは全く別のことだと思います。 迷いも含めて書いたらよろしいのではないでしょうか。 ただし、文章的には、言いたいことを明確に。

  • mdh57
  • ベストアンサー率25% (7/27)
回答No.2

私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。 (私事で恐縮ですが・・・) 私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。 これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。 全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに、神様や仏様がいる」という考えを否定している、無神論の教えです。 (自身の中の仏界を引出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しています) 前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、 後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門(無神論)にたどりつきました。 そして、邪宗や占い師など、(もちろんカルトも)信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。 10年かけて、しっかり宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。 詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。一度でいいので、最後まで読んでみてください。 仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。 釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で、「法華経本門」といいます)」を説きます。 しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2000年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。 そして、釈迦が「文底秘沈」した(明らかにしなかった)「法華経文底独一本門」(無神論)が末法で信仰すべき仏法だと教えています。 仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。 死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、 死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。 肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。 簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。 つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。 過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、 「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、 定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。 また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。 (もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます) また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。 それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。

  • kyoromatu
  • ベストアンサー率14% (746/5024)
回答No.1

エッセイは 思索や意見、感想などを形式にとらわれず、簡潔に述べた文学の一ジャンル。エッセイまたはエセーは日本語では一般に「随筆」の意味で用いられ、文学の一ジャンル ということですから、自分は自分だというありのままの立場で宜しいのではないですか。論文みたいに裃を着て書く物でもないような気がします。 かえって堅いエッセイなどは敬遠されそうな気もしますので、あまり気張ったり脚色したりということより、あなたの価値観・人生観を以って思った通りのことをできるだけ軽いタッチで書き上げればそれで宜しいのではと思います。 世の中は老若男女:学のある人ない人10人10色ですからその人達に自分の立場云々と言っても難しい話だと思いますので、最大公約数的に自分は自分であり他人ではないというところに落ち着きそうな気が私はします。 質問文末にあるように >自分の正直な気持ちです そのスタンスで十分ではないでしょうか 

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