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「人生ってくだらない」と思ったことはありませんか?
私は全ての人間と、その人間の内の一人である自分に絶望しています。 結局のところ人間には、自分の意思なんてものは無くて、全ての行動は本能の力によって導き出された結果だと思うのです。特に私は自尊心によるコントロールに絶望しています。他の人に認められたい、評価されたい、という欲望に振り回されている人を見ると、くだらないなと思ってしまいます。いわゆる人生の成功者と呼ばれている彼らのことです。 以前、私は上記のような後ろ向きな考え方をしたことはありませんでした。むしろその逆です。いかに自分を成長させて、人よりも価値のある人間になるかということに日々夢中でした。毎日が希望に満ち溢れ、輝かしい未来を夢に描いていました。 ところが最近になって、変に生物学やら心理学の知識を付けたせいか、その活力の源が遺伝子に組み込まれた自尊心なのではないかと疑い始めました。自分が主体として頑張っていたのではなく、自分は遺伝子によって頑張らせられていた客体なのではないか、と。そう思った瞬間、今までの自分の行動全てが馬鹿馬鹿しく思え、何もやる気になれなくなってしまいました。 貧乏人から一代で大企業の社長になった方も、幼い頃から地獄のような練習を積み重ねて一流のスポーツ選手になった方も、みんなみんな自尊心に踊らされた人間です。自分の欲望によって動かされたに過ぎません。 こんなしょうもない駄文を長々と読んでいただき、ありがとうございます。こんなことを書いているのも、このままじゃダメだと心のどこかで思っているからです。かつて無我夢中で毎日が一生懸命だった自分に戻りたいんです。でも、どうしてもこの本能によってコントロールされた自分という客観的事実を無視したまま、取って付けたような理屈で自分を騙しながら前に進みたくないんです。 ここで皆さんに質問です。 「人間の行動に主体性はあるのでしょうか?」 ありきたりな楽観論はお断りです。 私の心に革命を起こすような回答をお待ちしております。
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- shizumo
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No.5ですが、この決定論というのは結局のところ正しいか正しくないか判別の仕様がありません。なぜなら観測することでさえすでに決定付けられているとしたら判別のしようがないからです。ただ、我々は意思(と自分たちが思っているもの)はあるようです。その意思は未来を決める要因にはなると思われています。我々は未来はわからないので、どちらの選択をしてもなるようにはなるのでしょうが、少なくとも選択をしたというつもりにはなります。(全てのカードがスペードのAのカードの山から1枚相手に取らせて、あたかも相手はそれが偶然と思わせるようなマジシャンズ・チョイスのようなもの) ただ、われわれは過去の経験から目標に向かって何もしない人間は、何かをする人間より失敗する可能性が高いことを知っています。 宝くじのあたりが宇宙創生の時から決まっていたとしても、買う努力をしない人間にはあたりません。
通りすがりです。 >「人生ってくだらない」と思ったことはありませんか? ありますよ。 他人をアテにして、自分では動かずに テレビや雑誌やくだらない専門書ばかり読んで、 知識を得たと思い、 知ったような気になっていた頃の私がそうでした。 くだらないものは簡単に手に入ります。 本当に為になる知識はそう簡単には手に入りません。 生きる姿勢が怠惰だと、おかしなものを掴まされます。 人任せでは駄目です。 あなたが得たものは今、あなたの力を奪っていますが、 本当に自分の為になる知識を得たら 必ずそれが力になります。 そういうものを探したらいいんじゃないかと思いますよ。 >自分は遺伝子によって頑張らせられていた客体なのではないか、と。 >貧乏人から一代で大企業の社長になった方も、幼い頃から地獄のよう >な練習を積み重ねて一流のスポーツ選手になった方も、みんなみんな >自尊心に踊らされた人間です。自分の欲望によって動かされたに過ぎません。 そうじゃない人もいるでしょう。 だったら、そうじゃない人は何なのかってことでしょう。 そこを排除して切り捨てているのですから分からなくなって当然と思います。 調べてみると良いと思います。 ちなみに ここで、質問を繰り返すことは、 調べることとは違いますよ。 ※私はそう思う。というだけです。気に入らなければ スルーしてください。
- kinaga
- ベストアンサー率26% (147/551)
>その活力の源が遺伝子に組み込まれた自尊心なのではないか ↑そうだとしても、でも、人は行動を起こして、本能のいくまま、生きていくのでは ないでしょうか?・・・質問者さまも、日々行動を起こして、無我夢中に生きてきた と書いていらっしゃるから、もうそれが答え?になってるのでは? ある程度は遺伝子によって、決まっているのでしょう。 でも、そこからが問題です。 人間は変革していきます。自分自身の力で動いて、そして行動を起こして、結果 が出来上がります。。一慨には言えないですが・・・ >どうしてもこの本能によってコントロールされた自分という客観的事実を無視したまま、取って付けたような理屈で自分を騙しながら前に進みたくないんです。 ↑ちょっと、意味が分かりにくいのですが・・・でも、本能は大切ですよ。 私は無視はできません。その上で、人は動いていく、今生の生業を頑張って 生きていくのではないでしょうか?虚しいと思われるのは、辛いですね。 それを前向きにとらえる方法として、もう認めるしかないでしょう・・・ どうでしょうか?もしくは、本能と反対のことをしていくのも手かと思います。 遺伝子に組み込まれた自尊心とは反対のことを出来ますか? 私は謎ですね・・・失礼します。
- cicade_001
- ベストアンサー率16% (11/65)
どっちでも良くないですか? 頭で考えて行動してても、体に刷り込まれた本能が勝手に行動を導いても、その先に自分の求めるものがあるなら幸せだと思いますけど。 文章を読む限り、投稿者さんを不満にさせる原因は目標がないからだと思います。回りが言うからやっている。って感じじゃないですか? 自分が“本当に”したいことが見つかればそんな悩み一瞬で飛びます。 あと、そんな難しい言葉をつかって、堅苦しく考える必要もありあません。 たとえば、あなたが世界の救世主で世界を救うために人生80年を苦痛なだけの労働で終わらなければならないとしたら、それはそれは立派な理由があり、目的があります。しかし、僕ならそんなことはしたくない。自分の自由に行きます。たとえ世界が滅んでも。これは極論すぎますが、やりたいことをやったらいい。それだけです
お礼
回答ありがとうございます。 >>文章を読む限り、投稿者さんを不満にさせる原因は目標がないからだと思います。回りが言うからやっている。って感じじゃないですか? 自分が“本当に”したいことがないことが問題なのではなく、自分が“本当に”したいことが本能によって作り出された幻想だと知ってしまったことが問題なんです。 自分の向上心や負けず嫌いの根性が、生物特有の自尊心の力によるものだったと知ってしまったことが問題なんです。 人という種の発展のために、自分が遺伝子に動かされていたという事実を知り、自分の夢が自分のもののように思えなくなってしまったんです。
- libertien
- ベストアンサー率36% (9/25)
今でも時たま思いますよ。 子どもの頃はみんなキラキラしていろんな夢を持ってましたが、結局大人になったら、異性とセックスの事ばっか考えて、結婚して子供が出来たら家族のために働いて、そのまま死んでいく。 夢がないなあって思います。
お礼
回答ありがとうございます。 人生なんて客観的に見たら何の意味も無いのでしょうね。
- nonemu9999
- ベストアンサー率14% (14/94)
仮に、人間が遺伝子に操作された身体であったとして、何が問題? 遺伝子の命令どおりにやっておけば良いジャンって感じですけど。 変な自我など目覚めさせて、遺伝子の邪魔をして、 結果 悩んでるなんて馬鹿じゃないの?って思うけど。 遺伝子がやりたい事を、質問者が利用すれば良い。 仮に9割が決められていて、自分の裁量が1割しかなかったとしても その1割を楽しめた人生なら大成功ではないか? これも楽観論かな?
お礼
回答ありがとうございます。 >>変な自我など目覚めさせて、遺伝子の邪魔をして、 結果 悩んでるなんて馬鹿じゃないの?って思うけど。 その通りです。返す言葉もありません。でも、私も遺伝子の命令どおりに真理を知りたがっているだけなんです。 >>遺伝子がやりたい事を、質問者が利用すれば良い。 仮に9割が決められていて、自分の裁量が1割しかなかったとしても その1割を楽しめた人生なら大成功ではないか? 結局のところ人生は楽しんだ者勝ちなんでしょうね。
- shizumo
- ベストアンサー率12% (159/1285)
遺伝子以前に宇宙創生の時。その時の状態が正確にわかれば以後の宇宙は全てが計算できる。 遺伝子はたんぱく質の反応の結果だし、そのたんぱく質は化学物質でつくられ化学物質は元素の組み合わせ、元素は素粒子・・・ということですな。この考えでいくと、あなたがここに質問をしたことすらすでに決定されていた結果ということになります。 こっちのほうがもっとむなしいでしょ。
お礼
回答ありがとうございます。 私の考えとあまりにも同じで驚きました。 未来は知ることが出来ないだけで、既に決まっているのではないかと考えています。 そして我々は身体に乗ってそれを見ているに過ぎないと。
- coraje
- ベストアンサー率22% (5/22)
人間というのは開放システムです。そんな簡単に解釈できるものではありません。 生物学やら心理学以外の勉強をされてみてはいかがでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 開放システムという言葉を知らなかったので調べました。外部との情報のやりとりを通じて自分自身の構造が変わるシステムという意味ですね。 >>人間というのは開放システムです。そんな簡単に解釈できるものではありません。 あまりにも投げすぎた答えで、逃げのように聞こえてしまいます。 もしよろしければ、もっと具体的な回答をお願いします。 >>生物学やら心理学以外の勉強をされてみてはいかがでしょうか? 具体的にどのような分野でしょうか。
- kyoutoukyo
- ベストアンサー率6% (97/1560)
くだらないと思ったことは一度もありません で、質問の回答ですが 自由度が高ければ主体性も高くなる 自由度が低ければ主体性も低くなる 主体性を高くしたいか低くしたいのか……という、 主体的に考える自由があるのであれば、そこで行動が決定できると思います 貴方の言う遺伝子の力に対抗することも自由ですし、仲良く手をつなぐ人生にすることも自由です 主体的に考える自由がない場合は、 不自由であることを嘆くのみのくだらない人生とするか、主体性をあげなきゃなりませんね 主体性を上げるには、最初に申し上げた通りに自由度を高くすることです 自由度を高くするには? ということで答えは「周囲から自由を認められる」と行き着くかなと思います=成功者への道。
お礼
回答ありがとうございます。 kyoutoukyoさんの回答を見て、私が質問の中で主体性という言葉を使ったことが、そもそも間違っていたことに気づきました。 確かに「主体性がある」とは、周囲から自由を認められ、自分の意思で行動することのできる状態を指しますね。 >>貴方の言う遺伝子の力に対抗することも自由ですし、仲良く手をつなぐ人生にすることも自由です 私はこの部分が真実かどうかを問いたかったのです。他者との関係は直接的には関係ありません。 私の語彙力が弱さのため、失礼いたしました。これから質問を訂正させていただきます。
リチャード・ドーキンスとか読んで虚無を感じたクチか。 生命が利己的な遺伝子の乗り物に過ぎないことは事実だろうね。 納得できる考え方だ。 では、人間にはまったく主体性がないかといえば、オレは否と答えたい。 一卵性双生児のDNA塩基配列は100%同じというのが定説だけど、彼らの人生は当然同じものではない。 環境や人生で身につけたものが複雑に作用して、瞬間瞬間の判断に影響を与えている。 生き方は選べるということだね。 その一方で、生命は有限で寿命や健康は遺伝子の影響を強く受ける偶然与えられた儚い存在であることも事実だ。 つまり、人は偶然与えられた虚無な存在であると同時に、能動的な選択ができる主体性も持っている、というのがオレの考えだ。
お礼
回答ありがとうございます。 ピンポイントで当てられてしまいましたね。 その通りです。ドーキンスの「利己的な遺伝子」も読みました。 >>環境や人生で身につけたものが複雑に作用して、瞬間瞬間の判断に影響を与えている。 この点は納得できます。私も全ての判断がその場その場の情動から生まれるものだとは考えていません。 しかし、 >>生き方は選べるということだね。 この文へ繋がる理由がわかりません。それまでの環境や経験が瞬間瞬間の判断に影響を与えているということは、生き方が環境や経験によって限定されているように思えます。そして、そもそもその環境や経験は、“利己的な遺伝子”によって人間が動かされた結果の蓄積なのではないでしょうか。 文章の捉え方に誤りがあれば、ご指摘願います。 「人は偶然与えられた虚無な存在である」という表現はとても心に響きました。
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お礼
回答ありがとうございます。 >>人間は変革していきます。自分自身の力で動いて、そして行動を起こして、結果が出来上がります。 遺伝的形質も自己の一要素であるなら、全くその通りだと思います。 そして実際にそうであると思います。 数々の方に回答をしていただいて、わかったことがあります。 それは、私が今まで意識してこなかった私の性格です。具体的に書くと、自己を操作されることを極端に嫌うという性格です。そして問題は、本来なら自己の中の要素である遺伝的形質すらも、自己を操作する他者的存在だと考えてしまい、私はその遺伝的形質に自己を操作されることを嫌っていたということです。 この考え方が自己矛盾を起こした原因なんだと気付きました。 私は「真の自分」と言える、魂のような主体的な存在があって、その主体的存在が、自分の中の遺伝的な要素や環境的・経験的要素を判断の道具として“使っているもの”だと勘違いしていたのです。 そんな主体的存在なんてものはそもそも無かったんですね。自分の中の全ての要素が他者(もちろん人間以外も含めた意)から与えられたもので出来ていたのですね。