平成7年2月28日最高裁第3小法廷の判決を見たときは、驚きましたね。
昭和の判決を見慣れた目には、同じ『最高裁』とは思えませんでした。(その後、同傾向の判決が続くに及んで、最高裁・法務省の大方針転換がはっきり分かってきました。)
平成に入ってから、それまでの「法曹界の常識」という完結した法律世界から、一般社会に開かれた法曹へという方針転換が確立しました。
それに伴い、法務省・最高裁は大改革を先導しています。
・法曹制度大改革
司法試験制度改革(法科大学院制度)→弁護士激増
認定司法書士・認定土地家屋調査士の裁判参加
裁判員制度
・民法抜本改正
・不動産登記法抜本改正
→不動産登記の電子化
・男女機会均等法
・個人情報保護法
・公職選挙法改正(在外日本人に対する完全国政選挙権付与)
・国籍法改正
・住基ネット運用開始
・国の行政機関での職員の旧姓使用開始
今後、可能性があるとして議論に上っているのは
・刑法の時効延長、時効廃止
・国民総番号制
・夫婦別氏制
そして、質問者さんの取り上げている「外国人地方参政権付与」などです。
傍論を付けすに、その裁判のみを対象に簡潔な判決を書くというのは、一つの見識です。
また、一般人が誤解しやい判決に対しては、あえて傍論を付けても、判決の意味を誤解しないようにするというのも、一つの見識です。
立脚点は、判決を誤解することのない法曹界の人間に向かって判決文を書くか(=昭和)、法律に深い知識のない一般人に向かって判決文を書くかという姿勢の違いです。
最高裁判事は、他の下級審と違って、判決に際して個々の意見を述べることが許されています。
例えば、選挙の違憲合憲の判断で、2.8倍の格差は合憲であるという判決に、個人的に3倍以上は違憲であるという補足意見を付け加えることができます。(この補足意見は、判決とは関係ありません。)
平成7年2月28日の判決における「傍論」は、判決に関与した5人の裁判官全員が同じ補足意見を付けているのと同じような意味をもちます。
<平成7年2月28日最高裁第3小法廷の判決の理解について>
傍論部分が何のために付け加えられたかを考えながら、解説します。
外国人地方参政権付与について、『禁止説』・『許容説』どちらの立場をとる人間にも共通の、法律を扱う人間の常識について、先ず二つ述べます。
・論理学の基礎
高校の数学でも習う基本事項を確認します。
A→Bが正しいとしても、反A→反Bが正しいとは限らないという、論理を扱う人間の共通事項です。
「安室奈美恵であるなら、女性である」というのは正しいことを述べていますが、「安室奈美恵でないなら、女性ではない。」というのは正しいことを述べていません。
ですから、どのような法的立場を取るかにかかわらず、
「外国人地方参政権を与えないことは、違憲ではない。」というこの判決を理由に、その前提と結果をそれぞれ反転した「外国人地方参政権を与えることは、違憲である。」ということを、当然正しいと捉えてはいけません。
最高裁第三小法廷平成7年2月28日の判決を引用して、「外国人地方参政権付与が違憲である」と言う人がいますが、判決に示されているのは「外国人に地方参政権を付与しないのは、違憲ではない。」ということです。
この二つは同じことを言っているように、直感的に捉える人が、結構多いのですが、法律上は全く異なっています。
この二つは同じことを言っているという誤解をした段階で、論理が破綻してしまいます。
法律・論理のプロでない一般人が、この誤解を起こさないようにというのが、傍論を付けた理由の一つでしょう。
・法律の基礎
裁判所は、現実に存在する法律に基づいて判断をします。
つまり、「外国人地方参政権付与法案」が法律として現在のところ存在しない以上、そのような法律についての提訴があるはずもなく、提訴がない以上、判決理由の本論で「外国人地方参政権を与えることが違憲か合憲か。」ということについて判断されることはありません。
ですから、判決理由の本論で述べられることが、あるはずもないのです。
これが、上記判決の「外国人地方参政権付与は国会の裁量権の範囲である」と述べた部分が『傍論』である理由です。
(同様の理由で、「外国人地方参政権付与は違憲である」と言うことも本論で述べられることはなく、もし述べていれば傍論となります。)
・平成7年2月28日最高裁第3小法廷の判決の背景。
憲法も標準的法律の構成例に従って、先に一般論を記載し、後の方に例外を記載しています。
地方参政権についても、一般論である憲法15条1項と、例外部分の第93条2項を検討しなければなりません。
一般に言葉は、社会の変化でその意味するところが変化していきます。法律が言葉の意味の変容を許さない場合、法律の中で言葉の意味を定義し、固定したものにします。
地方自治の権利主体である『住民』について、憲法に定義はありませんから、この『住民』とはどのようなものかについて、日本人の社会通念に従います。
・『住民』の社会通念
明治初期には、外国人の居住は日本国の治外法権である「外国人居留地」に限定され、その中に日本人が住むことも許されませんでした。
つまり、日本の国権の及ぶ土地に住む人は、日本国籍を持つ人間しかいませんでした。ですから、住民=住んでいる人=日本国籍所有者であったわけです。
そのような、地域コミュニティに住む人の全員が日本国籍を持っているという状況が長く続いた結果、日本国籍を持ってその地域に住んでいるのが『住民』で、日本国籍を持たない人間は、外国から来た文字通りの『外人』であって、住んでいても住民ではないという社会通念が出来上がりました。
平成7年月28日の判決でも、その現在の社会通念に従って、<住民とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当> と最高裁判所上告審判決を行ったのです。
では、現在の「『住民』という社会通念の状況は?」と見ると、地方議会で『外国人地方参政権付与を求める議決』が無視できない数に上り、平成の大合併では100以上の自治体で「合併について賛成か反対かを問う住民投票」に、永住権を持つ外国人も対象に含めるという状況になってきています。
最高裁は、今まさに『住民』という社会通念が変化しつつある状況で、「住民」とはなにかという判断を迫られたわけです。
・最高裁第三小法廷が判決で傍論を付けた理由
最高裁は、裁判所として司法判断をするだけでなく、司法行政をも担当しています。
今まさに『住民』という社会通念が変化しつつある状況で、直感的に、「外国人地方参政権付与が違憲である」という誤解を与えやすい「外国人地方参政権を与えないことは、違憲ではない。」という判決を出すのですから、国会で「外国人地方参政権付与法案」が通過し、それに基づいて地方選挙がなされたとしても、当然のごとくすぐさま「外国人が地方参政権を行使した選挙は無効」という提訴があることは容易に予想できます。
この判決が、地方裁判所から高等裁判所へと控訴を繰り返して最高裁に至り、判例として下級審を拘束する最高裁判決が出るまでに、統一地方選挙がもしあれば、何百以上(千件を超えるかもしれない)もの同様の裁判が行われ、裁判数の激増によって、司法行政が大混乱に陥る恐れもあります。
社会通念は徐々に変化していくもので、特定の時点での0%から100%に急変するわけではありませんし、司法判断はある特定の時点に行われる判決でしか明らかになりません。
そして判例として司法全体を拘束する効力を持つ判決の時点まで待っていれば、司法行政の大混乱が予想される状況だったのです。
そこで、傍論ではあっても、最高裁が『住民』をどのようにとらえているかを示すことが、健全な司法行政を運営する上で必要と判断したことが、傍論を付け加えた理由の一つでしょう。
・最高裁の社会通念としての『住民』の捉え方は?
社会通念とは、日本国民全体の意識です。
国会は日本国民の意思を表す最高機関ですから、国会で外国人地方参政権を否決するなら、『住民』の要件として日本国籍を持つことが必要という社会通念を依然として持っているということであり、外国人参政権付与法案を可決するなら、『住民』の要件として日本国籍を持つことが必要とは考えない社会通念に変化したということになると、最高裁は考えていると思われます。
とはいえ、そのような法律が制定されたとしても、「外国人地方参政権付与法案は違憲であって、それに基づく選挙は無効である」と裁判に訴えることは日本国民の権利であり、禁止できるものではありません。
また、最高裁の示した判断は、あくまでも「傍論」ですから、判例として下級審を拘束する力はなく、「禁止論」に立つ裁判官もいるはずで、下級審で違憲判決が出るケースも当然考えられます。
しかし、傍論を付与したことで、外国人地方参政権付与に対して、起こされる裁判の提訴を減らすことが期待できます。
また、最高裁まで上告すれば「許容論」に基づく合憲判決がなされると推測(あくまでも推測でしかありません。)される状況です。
補足
詳しい背景説明有難う御座います。そのような事情があったとは知りませんでした。