概念が情感を喚起することがあるか
概念が情感を喚起することがあるかというテーマで質問させて頂きます。
前々回と前回の質問の際に少しだけ話題に出しましたが、ヘレン・ケラーの話を再度取り上げます。たしか、前々回の回答者の方からも話題にして頂きました。その時の回答者の方は、「概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われる」という話と関係して紹介なされたように記憶しております。
その時の文を厚かましいのは承知の上で使わせて頂きます。(ご無礼でなければいいのですが)
<ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これがwaterというものであることを知りなさい! そして言ってみなさい! 発音してみなさい!言ってみなさい!!」>---以上引用文
実に感動的な場面でした。映画「奇跡の人」のあの場面をみて感極まらない人はなかなかいないと思います。さて、ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時でした。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったわけです。
では、なぜ、Water!という言葉が感動を与えたのでしょうか。そもそも言葉に感動を与える働きがあるのでしょうか。確かにあるとしか言えません。もし、あの場面が無声映画で字幕もついていなかったとしたら感動はあったとしてもさほどのものではなかっただろうと思われますから。
感動は、言葉そのものが持つ意味と文脈の相互作用によるものだと思えますが、今回の議論においては、文脈(状況)という要素を極力排除して、言葉そのものが持つ意味だけを問題にすることとします。文脈(状況)という要素については後で(つけたし程度ですが)言及することにします。
ここで、名詞が限定詞を伴う場合とそうでない場合とで感動の仕方(情感の感じ方)に違いがあるのかをwaterを例にとって考察してみたいと思います。
Water is a clear pure liquid. におけるwaterはカテゴリーであって、話者によって客体的(傍観者的に)とらえられるものなので情感を表すことはできません。カテゴリーの機能は整理と秩序づけだと思われますが、こうしたものを志向するときはどうしても客体的な見方が必要とされて、言語主体と対象との間に隔たりが生じます。隔たりのあるところに情感の行き来はありません。
I drank some water. におけるwaterは実体ですが、空間的限定が与えられている(客体化されている)ので言語使用者との間に隔たりを持ちます。隔たりによって情感の行き来は阻まれます。隔たりが消失するか、または隔たりが生じる前の段階でなければ情感が生まれることはないはずです。
Water, water, waterrr!! ....." の場面において、<水>の冷たさやさわやかさをヘレンは実感として感じ取っていますが、同時に、それを観客も実感しています。ヘレンだけでなく、観客も画面を通じて<水>の冷たさやさわやかさを実感しているわけです。
ただし、うれしさや驚きまでといったような情感までも、実体としてのwaterが生じさせることはないと思います。では、そうした情感はどこから生まれるのでしょうか。実体としての<水>には実感を引き出す力はあっても、情感を喚起する力を持っているとは思えません。なぜなら、情感がわくということは言語使用者が自分の心の中の何かと関わるからだとしか考えられませんから。そうした力があるとしたら実体ではなくカテゴリーの方だと思われます。
ということは、カテゴリーに2種類あると考えるしかありません。一つは定義文に見られるような客体的に言い表されたカテゴリー(意味)です。もう一つは言語主体との間に隔たりが存在しない前客体的なカテゴリー(意味)です。前者のカテゴリーの働きはその属性を表わすことだけです。一方、後者のカテゴリーには人間に情感を生じさせる力があると考えるしかありません。
でも、情感を実際に感じ取るためには、I feel fear now. におけるように、概念がカテゴリーでもあるし、同時に実体である(ただし、空間的制約が与えられず、量が明確に意識されない)という状況が必要とされるはずです。
ということは、Water! という実体が冷たさやさわやかさを実感させ、同時にwaterという前客体的なカテゴリーである<水>の意味と相まって、嫌だな、とか驚いたとか気持ちいいとかいった情感的反応が観客の心の中に生じるのではないかと思います。
(文脈・状況的なことには触れないつもりでしたが、少しだけ触れておきます。おそらく、我々観客が映像がかもし出す雰囲気の中に浸り込み、自分が観客であることを忘れてしまう時、前客体的なカテゴリーによって情感が引き起こされるのではないかと思います。)
結局、Waterの持つ前客体的なカテゴリーと<水>という実体とが相補的に影響しあって情感を引き起こすとしか言いようがありません。もちろん、私の仮説にすぎませんが一応の合理的な整合性を持っているように思われます。いかがでしょうか。
では、なぜその時に情感が生まれるのかということですが、情感が発生するのではなく、もともと認知行為の最初の時点において情感が存在していたのではないかと思います。そもそも認知行為の最初の時点において、知覚相だけでなく情感相も働いていたのだと考えるしかなさそうです。前々回の私の投稿でも述べましたが、一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。そもそも言葉は心的な経験でもあるので、そうした経験に情動・情感的相がかかわらないわけがありません。知覚的相と情感的相は相互補完的なものであるはずです。
これは、私の仮説ですが、言語主体が何か(例えば水)を認知する時、まず訪れるのはカテゴリーと実体に分化する以前の状態だろうと思います。"Water!" も"Summer (has come)." も"(I feel) fear (now)."も、カテゴリーと実体に分化する以前の状態だと考えれば、言語主体が実感を伴って、場合によっては情感を伴って関わりを持つ、そのような状況だと思います。(その場合、文脈や状況次第で情感の強さが異なるのではないかと思います。)
その後、概念がカテゴリーと実体とに分化してゆくと、情感や実感はもっぱら語が持つイメージや文脈などから間接的に与えられるものとなっていったのではないかと思います。
例えば、I feel fear now. においては、おそらく、不安・恐怖は話し手が直接的に感じ取るものだろうという気がします。一方、some fearという語からも実感がわきますが、これはfearという言葉の持つ意味が間接的に生じさせるものだろうと思います。
先ほど述べた仮説の言い方を変えると、時間と空間の制約を受ける実体(someや冠詞などの限定詞がつく)はもっぱら知覚の相において把握されるものであり、時間と空間の制約を受けない実体(someや冠詞などの限定詞がつかない)は前客体的なカテゴリーと共に、情動や情感の相において把握されたものであると言えるのかもしれません。
ここで、概念とまでは言いませんが内包に非常に近い用法の場合を考えてみます。
"(Bring me) jewels(. Be quick.)においては、 jewelsは概念ではありませんが概念に非常に近い働きを行っています。"Water"!やfearと同じように考えてよいのではないかと思います。宝石強盗の持つ切迫感とか、脅迫めいた語調が伝わってくるような気がします。
同様に、Summer has come. やNight is coming on. において、実体としてのsummerやnightは話し手に暑さや暗さを実感させると思いますが、暑さに伴う不快感・開放感や暗さがもたらす不気味さ・不安やロマンチックな感じをもたらすのは、カテゴリーと実体に分化する前段階のsuumerやnightだろうと思います。
以上です。ご意見をお持ちしております。
お礼
舞台に上がる人にはいろんな苦労があるのですね。 有難うございました。