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戦う事にこだわる生き方ってどうでしょう?
僕は大学へ進学する時も卒業する時もそして会社へ就職する時も、 人として完全に堕落してしまう寸前まで落ちて、でも運が良いことに その僕を助けてくれる多くの人達の助けによって今こうして無事に 真っ当な生活を送ってれています。 そんな中でどうしたら彼らに恩を返せるのかという所から端を発し、 やがて人生のテーマとして、どういう風に生きたらいいのか? という問いを持つようになりました。 そして誰かを助けたいと思った時に、それをする力が欲しいと思いました。それはもちろん経済的な意味も含みますが、それよりも もっと、誰かを楽しませたり笑わせたり、悲しい時にそれを感じれたりする精神的な力や、それを実現するための能力や体力の部分。 だから将来どうなるかとかじゃなく、もうその日の内に一体自分がどこまで勉強し、どこまで体力を振り絞れるかに割と夢中で 一言でいうと「俺は俺と戦って勝ちたい」っていうものになります。 そういう僕を周りの人は、よくそんな疲れることを・・・とか バカの考える事はよくわからんといったような口に出すか顔に出すか します。 確かに賢くは無い気もしますが、だから頑張りたい、その頑張ってる、 戦ってるその瞬間こそが生きてる気がしてならないんです。 そして手を抜いたらせっかくの成長チャンスをスルーするみたいで いやなんです。 でも、本当の意味でこれを肯定してくれる人とまだ会った事がないです。 みなさんもなにいってんのこの人は?って思いますか? おそらく僕の中にある基本軸はきっとこれからも変わりませんが、 暴走するのもどうかなと思い、軌道修正の参考として質問してみました。
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- KLeezon
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イマドキはそういうのを熱く語るのはこっぱずかしいとか 他人に押し付けるのは暑苦しいという風潮があるでしょうけど 無関係の第三者として話を聞いている分には嫌いじゃありませんよ あなた自身が自分で導き出した人生哲学なのですから それをまっとうされるのも一つの生き方ではないかと思います 戦う、ということはがむしゃらに突き進むだけでなく ここ一番のためにしっかり休養を取ることや、 戦略的撤退、時には自身の敗北すら潔く認めることも含まれるのだ と、気づけるのであれば 若く気力に燃えているうちに出来る経験をすべて積んでおくのは 推奨されて良いことでしょう まあ、大多数の一般市民は時間のある学生時代ならともかく 社会に出たら毎日の生活に気を取られて なかなかフィロソフィーにまでまわす気力が残る人少ないですけども…
- tiltilmitil
- ベストアンサー率22% (1871/8250)
極端なたとえでいうなら、「この書類を複写してくれ」といわれたら、コピー機でざっと複写するのでなく、一字一句間違えないように手書きで綺麗に書き写す。それが質問者様の姿勢ではないかと。複写するという行為は複製物を得るための手段でしかないのに、その過程で苦労することに価値を見出している。そんな印象を受けました。 孫子の兵法にもあるように、「戦わずして勝つ」ができるのならそれに越したことはないでしょう。
- linthesuzu
- ベストアンサー率5% (1/17)
正直に言います。あなたの考えはあまりにも初期仏教の考えに似ています。え?仏教??宗教???と思われるかもしれませんが、私が言う仏教というのは「初期」仏教であって今全世界に広まった(日本も含め)インチキ仏教とは訳が違います。神、霊、儀式、など全くでてきません。この世は何かを信仰していれば幸せになれるという事はないのです。あなたのように、常に努力し、己に打ち勝ち、人のために何か貢献してあげたり、 他人と勝負することのくだらなさを知る。そういうことで真の幸せを得られるのです。初期仏教というのはそういうのを教えます。>>誰も恨まず、真っ直ぐただ道を見つめて進む >>人はみんな支えあって生きている これもそうです。 これをもっと深く知るために初期仏教で「今をどう生きればよいか」を学んでみてはどうですか。ここまで考えが及んでいたあなたならきっと共感できると思いますよ。 http://www.j-theravada.net/kogi/kogi1.html
- yoshix7
- ベストアンサー率32% (247/762)
補足でお返事ありがとうございます。 すごく個人的な意見ですが、私はあなたのような方は好きですね(笑) 「さあ、どうする」ですか たぶん、まだお若いのではないかと思うのですが 今、それを考えているのは素晴らしいと思いますよ。 私は、そんなこと考えなかったですから(笑) 他の方の回答にもありますが、暴走ってやつです(汗;) 自分にも厳しかったので、他人にも厳しかったですし・・・ 結果、多くの人に迷惑もかけましたし、心配もかけました。 まっすぐだったので、信用していた人に騙されたり、詐欺にあったりもしました。 多くの成功者と言われている方々が、仕事で成功して地位や名誉、お金を手にしても 多くの方が、それと引き換えのように家族とうまくいってないことが多いんですね。 でも、俺は違う、両方うまくやってやると思っていましたが、難しいんですね。 結局は、私も仕事のために家族が犠牲になり、今は別々に生活しています。 従業員も抱えてしまうと、家族のために縮小するということが出来なくなるんですよね。 今となっては、家族や友人と楽しく過ごせる毎日が多い方がいいなと思います。 先ほども書きましたが、倒れて死にかけたんですよね、それも2回も・・・ 普通では生きてることが、考えられない状態だったようです。 それでも、好きな格闘技をやめることが出来ずにいます(笑) 主治医の許可がいるので、相談しましたが この歳で、この病気になった人が少ないということ この病気は、ほとんど高齢の方なので、格闘技をしたいなんていう人がいないので 前例がないことということで たぶん大丈夫だと思うし、やったことでどうなるかのデータを取りたいということで 許可をもらいました。 あなたもそうだと思いますが、性格なんでしょうね。 いつ死ぬかわからないのに、リスクがあることを避けない。 ホントに周りからすれば、ただの馬鹿でしょうね。 あなたは、同じような性格の方だと思うので心配ですね。 精神的にも太くなったと書いているので大丈夫なのかも知れませんが 精神的につぶれるときほどキツイものはありません。 2度目に倒れた時に、色々と酷い目にあって私は精神的につぶれてしまいました。 倒れたことをいいことに、金を持って逃げた人、騙した人、会社・・・ 退院してからしばらくは、むちゃくちゃでしたね。 おかげで、いまだに人を信用することが出来ないですから・・・ せっかく、「さあ、どうする」と考えているのですから じっくりと考えて見てください。 頑張ってくださいね!
- kametaru
- ベストアンサー率14% (339/2313)
>戦う事にこだわる生き方ってどうでしょう? 戦略的と言うことであれば極めて重要と思います。 戦略的と言うのは好戦的と言う意味ではありません。 また狡猾なことをすると言うことでもありません。 自らの利益誘導と言ってしまえばそれまでですが、自分を有利な立場に置く事は大切です。 Googleで「戦略的ホニャララ」で検索すればそれなりにヒットします。 例: 戦略的就職活動 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E6%88%A6%E7%95%A5%E7%9A%84%E5%B0%B1%E8%81%B7%E6%B4%BB%E5%8B%95&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq=
暴走ではないと思いますが あまり突っ走りすぎると疲れますからほどほどに
- yoshix7
- ベストアンサー率32% (247/762)
いいと思いますよ。 ただ、休むことや抜く(手を抜くじゃないですよ)ことは大事ですよ。 私も、そんな感じでした。 常に100%を目指してました。 体も心もボロボロになって倒れてしまいました(笑) 知らない間に、あちこちに無理がきてたんですね。 奇跡的に助かりましたが、身体障害者になってしまいました。 うまくは言えませんが、ONとOFFの切り替えが大切ではないでしょうか? いつも必死でがんばっているのはいいのですが、 まだ、結婚はされてないのでしょうか? 奥さんがいらしたら、家に帰っても必死で何かに頑張っている姿を見ても 心配になるだけです。 心配している方は、楽しくもないし、幸せにも思わないでしょう ただ、心配なだけです。 頑張っている姿は、まわりには見えないようにする方がいいのではないでしょうか? 頑張っている姿を見せてもなんの得にもなりませんしね。 結局、今も周りの人から馬鹿にされるようなことを言われているのでしょう。 「俺はこんなに頑張っているのに」という押し付けや、不満にも変わってくるかもしれません。 私も、人並み以上に頑張ってきたという自負はあります。 だけど、考えてみると、頑張って生きてない人なんていないですから。 あなたから見て、頑張ってないと思う人もその人なりには頑張っているはずだと思います。 あんまり気負いすぎると、本当に疲れてしまいますよ。
- poyo3
- ベストアンサー率30% (260/857)
人が生きる目的は人それぞれでしょうからあなたにはあなたの考えがありそれが確固たる物であるならばそれはどうこう言うものではないかと思いますが。 余計ついでにですがなかなか判断は難しいのですけど人のためとか頑張るとか言うときにその本当の動機というのは実に怪しいものであることもあるのではないかと思います。 あなたの文面をみて少し感じたことはあなたの動機の背景は自分の無力感から逃れたいというところがあるのかなと。 頑張る理由もどちらかというと何か目的があってそこへ走るより走っていないといけないというようなどこか不安定なマイナスの要因に駆り立てられている部分があるのでは?と。 自分に勝ちたいというのはどこか自分の存在の不安定さから自分の存在を確かめたいというようなものがあるのかなと。 何を言っているのかわからないかもしれませんが人間はなかなか自分のことが一番理解しにくいものではないかと思いますので自分で正しいと思うことも実は本当の自分から逃れるための正当化であったりすることがあるのではないかなと思います。ことに絶対と断言するところが何か欺瞞があるような気がします。 あなた自身の生き方ですから人がそれを否定はするべきではありませんがどこか自分自身にとらわれすぎて周りが見ない部分があるのではないか。それが後に自分を思い込みの世界に引きずり込まれるのではないかなと思いました。勝手な文面からの感想ですので参考までに。
補足
おっしゃりたいことの全てがわかるというのは僕の傲慢になるかも しれませんが、でも、だいたい分かる気がします。 何故なら今の考えに至る過程において、確かに僕は無力な自分に対する絶望とそれを変える意志が無いことに苛立ちを持っていました。 そのせいで、その時の自分から見た頑張れてない人、その意志を持たない人をも否定していました。 その反骨心からくる強い感情で突っ走ってきました。 でも、それだけじゃ勝てないとある時に気付きました。 それだとあまりにもいちいち他人が気になって集中力が散漫になり、 無駄な力みで効率も落ち、また他人に対する悪い思考で勝つための思考時間が減ると。 そこがpoyo3さんがおっしゃられる自分自身の不安定さ、つまり弱さだとしてこれに僕は負けたくは無いんです。 誰も恨まず、真っ直ぐただ道を見つめて進むなんて聖人の領域かもしれないけど、だからといってできないなんて思いたくは無いと。 かつては人のために頑張るというのは、僕のためにも頑張ってくれという依存にも似た感情だったと思います。 でも人って結局そんなこといちいち思わなくても支えあって生きてるんだって、自分ががけっぷちの時に本当に痛感しました。 だから自分も、支える側に立つ時が来た時にちゃんとそれができるようになりたい、つまり誰かを助けたいという願望を叶えたい自分のために 頑張ってるんだと思います。
補足
ありがとうございます、僕が心配している事ズバリです。 実は僕も最近、身体(筋力)や精神自体は随分太くなったと思います。 ちゃんと成長してるんだなって。 でも、その分体調も壊し易くなりました。 そして「もっとちゃんと考えれば防げたな、その道を模索して次は上手いことやってみせる」 って反省してるようでしてないみたいな思考になってます。 本気でそう思ってるので彼女や友達にも自信満々に「大丈夫、まかせとけ!」とか言っちゃってて、そこで呆れられるというか。 ただ人の評価は本当に気にならなくなってました。 人がいてもいなくても、やることを変えたくないから見られる目は そうはいかないとは思いますけど、自分以外の人が手を抜いてるか 頑張ってるかは余り問題じゃなく、例えば仕事ならその行動成果から 自分の行動を考えるだけというか。 考えてもその手の人の本心は分からないのでいつも深く考えてません。 yoshix7さんはきっと命を削るほど本当に頑張った人なんだと思います。僕もゆっくりまったりとか幸せになりたいとかそういう願望より、 ギリギリのところにいて、そこで勝負したい、そこが自分の居場所と 盲信し始めてきてます。 だけど、周りの呆れ顔の中の、そうですね、yoshix7さんがおっしゃられる心配そうな顔が気がかりというか。 だから今迷いがある状態です。 他人の評価は気にならなくなり、やっと自分と向き合う準備ができた。 さあどうする?と。