>詳しい書籍などのソース的なものがあれば
他の方も述べているように、恐らく骨指術を参考に描いているのだと思います。いま骨指術を名乗る流儀は存在し、また、骨子術という名称そのものの道場もあります。(骨指術から派生したと思われる)
この骨指術とは、木に藁を巻いたものや岩石に、指先、拳、手刀などを打ち付けて鍛え上げたり、その硬い拳手で人を打つ技法で、指先で急所、ツボも攻めます。忍者の体術として教えているところがあります。
そうした流儀の中には、「骨指術とは文字通り武術や物事の骨子 (中心的なもの) に通じる」 「骨指術から骨法が生まれた」と主張する先生もいます。現代の骨指術、骨法には、玉虎流、義鑑流、虎倒流、玉心流などがあります。
しかし、これらの流儀には、ご指摘なような文献的な裏付けが無く、本当に古くから伝えられたものか懐疑的に見る専門家、研究者もいます。史実上、確認できないのです。戦前から戦後、大正から昭和にかけて突如としてあらわれた流儀であり、巻物も存在しますが記述の年代に矛盾が見られ新しく創作された可能性が高いです。
また歴史的、語彙的に見ると、実は骨指術より骨法のほうがはるかに古いです。
藤原宗忠の日記、「中右記」(1087年~)には大宅光房という武士の相撲についての寸評があり、「強い相撲だが骨法を修練しなくてはいけない」という趣旨の記述があります。
この場合の骨法とは、基礎的な鍛錬、土台、体の根源から湧く力を意味します。根源からの力というと、今日でも「あいつはなかなか骨のある男だ」とか「気骨」という言い方をしますが、共通したものを感じます。
武術としての骨法は江戸時代初期に実在し、紀州の佐々木五郎衛門の玉心流 (上記の玉心流とは伝系が違う) が知られていました。「乞言私記」という書物には 「佐々木は右手小指で人を打って死に至らしめる」 「膝の上に石を載せてそれを打ち二つに叩き割った」と書かれています。
また尾張の佐々木高正が創始した一条不二流にも骨法 (強法、こうほう、隠し武器も用いた)という当身を中心とした技法がありました。
玉心流、一条不二流ともに、この場合の骨法とは「拳骨を鍛える、使う武術」に加えて、「剛の力を用いた当身術」という意味合いが強く、力を強調したものであり、語源的には中右記の頃に使われた骨法に通じるものがあると思います。
経絡について述べると、遣隋使、遣唐使の頃に針医学が日本に伝わり、戦国時代にも灸による治療がありましたが、細かいツボ、経穴の概念はまだありませんでした。
経絡、経穴が伝わったのは江戸初期、中国の三才図会という類書(百科事典)を通してであり、揚心流の系統や他の柔術に当身の殺活術として組み込まれていきます。揚心流開祖は医師でもあり長崎で経絡医学、思想を学びました。その後、揚心流から派生した天神真揚流の人体図は、三才図会の胴人形図にそっくりであり、急所の説明の際の絵図も異国人がモデルになっています。
現存する中で最も古いと言われる竹内流の殺活術も江戸時代に導入されたもので、同流「心中口伝殺活穴所巻」には「穴所(急所、ツボ)や臓器の位置を知らなければ拳の効力も無くなる」とあります。
骨法、経絡医学ともに江戸時代初期からのものですが、もともと骨法のように骨を砕く剛の術と、経絡医学を用いた柔術の殺活術は相容れない要素があり、柔術家が骨について精通し骨継ぎを生業とするのも江戸時代中期以降です。 (嘉納治五郎の師匠、天神真揚流の福田八之助は整骨も行っていた) そして柔術家は関節を極める、外したり入れたりすることはあっても、骨を砕くことを主眼とはしませんでした。これは柔術には活かして生け捕りにする、取り押さえる、当身を嫌う、当てても命までは取らない志向が強かったからだと思われます。ですから骨法は主流にはなりませんでした。
尚、江戸時代の玉心流、一条不二流は失伝して現在伝える人はいません。
そして骨指術から骨法が生まれたのではなく、
江戸時代の骨法と柔術の経絡概念を模して現代の骨指術が生まれたというのが正しいです。
本来、骨法と柔術の経絡概念は方向性が違うものであり、
マンガの骨子術は、現代の骨指術をもとに作者が創作したものであると思います。
合気道をおやりになるとのことですが、合気道の源流である大東流にはツボ、急所を攻める技が残されていますよ。
お礼
回答有難うございます。 随分と乱暴な技なんですね。