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道庁の池はモネのパクリでしょうか
へんな質問ですがよろしくおねがいします。 道庁赤煉瓦庁舎の前の庭の池は夏になると睡蓮の花が見事です。よく見ると池に架かる橋のかたち、その下に咲く睡蓮の花、長い枝を垂らした柳の風情など、クロード・モネの描いた睡蓮の池にそっくりです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Claude_Monet-Waterlilies.jpg モネは睡蓮の池の絵を、ジヴェルニーの自宅の庭で描いたのだそうですが、道庁の池はモネの庭を意図的にコピーして造られたものなのでしょうか? 重要文化財の赤煉瓦庁舎完成は明治21年、モネが自宅の庭に池を造ったのが明治26年。ほぼ同時なので、もし道庁の池が庁舎と同時に完成したものだとすれば、2つの池は他人のそら似ということになるんでしょうが。
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No1です。 モネのと関係についてとは別にして、昭和初期から第2次大戦後までグランドホテルの北隣りに住んでいた母の話では、大戦中は極端な食料不足であったため、道庁の庭は一面芋やにんじんなどの野菜畑となっていたそうです。大通り公園も一面野菜畑になって市民総出で畑を耕していたとのこと、本格的な造園開始は市内中心部から真駒内へ米軍が移動した昭和20年代半ばからではないか?と言っておりました。 当時、米軍進駐開始当初はグランドホテルや三越は高級将校の宿舎として徴用されていたとのことですよ。 私の個人的な感想としては、札幌の史跡としては明治時代の洋館が多い(道庁をはじめ豊平館、知事公館、旧伊藤低、現札幌史料館、北1条教会など)のでその庭園もどちらかというと洋風になりがちなのではないかとは解釈しております。
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- goosapporo
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No.5に記載頂いた、あなたの主張はわかりますが、 だったら、 タイトルが 「道庁の池はモネのパクリでしょうか」 なのは違うのでは? 「こんなに素晴しい庭」が、「パクリ」ですか? 何か当初のご質問と、趣旨がだいぶ変わってきたように見えますが?
お礼
質問内容が地味なものでしたので、少しでも目立つようにと一計を案じ、敢えてインパクトをねらった質問タイトルをつけさせていただきました。 おかげさまで、goosapporo様をふくめ4名のかたからご回答をいただくことができましたが、そのため不愉快な思いをさせましたことを、謹んでお詫び申し上げます。
補足
調べてみますと、明治時代の地図では今の池のある場所は小川になっていたようでした。もともとからある自然の池ではないことはこれで確認できました。 ほかに道庁の庭の由来について情報がございましたら、よろしくおねがいします。
- goosapporo
- ベストアンサー率27% (78/285)
> 庭の由緒由来を明らかにすれば、観光客の人気ももっと上がるのではないでしょうか。 え? あなたの言う「庭の由緒由来」って、 あなたが予想する「道庁の池はモネのパクリ」という事ですか? 「道庁の池はモネのパクリ」と認めれば、 「観光客の人気ももっと上がる」から早く認めれというのがあなたの主張ですか? それはあなたの妄想でしょう。 「道庁の池はモネのパクリ」かを問い合わせる前に、 「道庁の池はモネのパクリ」ならば、「観光客の人気ももっと上がる」かを問い合わせてみた方がすっきりするんでは? 「しない」という回答がごっちゃつくと思いますから。 ってか、私には、 曲を聞けば、あっちの曲のパクリだと主張したり、 絵を見れば、こっちの絵のパクリだと声を大にする、 こうるさいおばちゃんにしか見えませんが。。。。。
お礼
ご回答ありがとうございます。 京都の渉成園は、光源氏のモデルともいわれる源融が、当時は辺境の地であった東北の松島をまねて造ったといわれております。また平等院の庭も十万億土のかなたの極楽浄土をまねたといわれています。 古来より日本の庭というものは、遠すぎて行くことの出来ない遠方の景色をまねることを目的につくられてきました。その伝統をふまえれば、フランスのジヴェルニーをまねて庭をつくることも、まったくありえないことではないでしょう。 道庁の庭も日本庭園の王道ともいえる池泉回遊式庭園ですが、もしこれが京都二条城二の丸のような純日本式池泉回遊式庭園だったらどうでしょうか。小堀遠州風の綺麗さびの庭であってもレンガ造りの洋風建築とつりあわない奇妙なものになっていたでしょう。フランスのテイストが加味されているからこそ、建築と庭園が調和しているように思います。由緒由来はともかくとして日本有数の名園であることにはまちがいありません。こんなに素晴しい庭であるにもかかわらず注目度が低いことが残念なのです。
- nidonen
- ベストアンサー率55% (3658/6607)
モネが「睡蓮の池と日本の橋」を描いたのは1899年、 すなわち明治32年ですから、道庁の池をその作品に 似せて作ることは不可能です。 また、国際電信が存在しない時代ですから、モネの庭が どんなものであるか、日本人が知ることもありえません。 美術教育で西洋画を扱うようになったのは戦後のことですし、 絵画作品としての「睡蓮」が日本にも知られるようになった のもやはり、戦後でしょうね。 なので結論として、他人のそら似以外にはありえません。 もっとも#3さんが主張されるように、この程度で似ていると 評価するのであれば、モネ風の庭園は日本に数限りなく存在 することになってしまうでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ・道庁の赤煉瓦庁舎ができたのは明治時代ですが、昭和の始め頃にはまだ庭に柳も睡蓮も無かったようです。昭和になってからの造園の可能性が高いのでは?と思っています。 ・日本では明治時代から印象派好きな人が多く、模写や複製画がたくさん入ってきていましたので、モネの絵も昔からよく知られた絵でした。 ・道庁の庭はとても美しい庭だと思います。重要文化財の赤煉瓦庁舎は有名な観光地ですが、庭の方はイマイチ注目度が低いのが残念です。庭の由緒由来を明らかにすれば、観光客の人気ももっと上がるのではないでしょうか。
- goosapporo
- ベストアンサー率27% (78/285)
どこも全然、似てないけど? 池に橋をかけただけでパクリと言われたら、おちおち橋もかけられん。 しかも、橋、全然似てないし。
お礼
ご回答有り難うございます。 睡蓮の咲く季節に道庁の池を眺めていると、モネの絵に似せようとする造園家の意図があるように私には感じられます。
- steinfluss
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これはパクリよりも寧ろ自然の成り行きでしょう。 そもそもモネのジヴェルニーの庭そのものが、日本風を意図して造成したものです。 モネが日本の美術に惹かれていたことはことさら述べるまでもありません。 そして道庁は言うまでもなく日本にあるもので、造園設計は日本人の担当です。 落ち着いたたたずまいを求めるのなら日本風の庭になるのは当然です。 どこかで意識していた可能性は100パーセント払拭できないものの、日本人がわざわざモネの庭を意識して造園する必要はありません。 モデルが欲しけりゃ日本国内にたくさんあるんですから。
お礼
ご回答有り難うございます。 モネは日本庭園の影響で自宅の庭をつくったそうですが、日本国内のどこの日本庭園にも似ていないモネ独自の世界になってしまっていると感じます。
- yotani0425
- ベストアンサー率30% (1185/3898)
こんにちは。 昭和3年生まれの母の話では、子供時代に池付近で遊んでいた頃(フナなどを網で取って遊んでいたとのこと)には、まだ蓮も柳も殆んど無かったそうです。 冬は凍結するのでスケート場にもなっていたとか。 段々造園していくうちに今の景色になったのではないでしょうか。その頃の造園担当がモネの絵の影響を受けていたのかもしれませんね~。 ご参考まで。
お礼
ご回答有り難うございます。 赤煉瓦庁舎の歴史は調べられたのですが、庭がいつ出来たのかわかりませんでした。 昭和になって出来たのですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そういえば、戦争のころは食料不足で、学校の運動場まで畑になったとい話は聞いたことがあります。ここもそうだったのですか。知りませんでした。
補足
もう1週間も過ぎましたので、そろそろしめさせていただきます。 こんなへんな質問に2度もお答えいただき、なんとお礼してよろしいやらわかりません。yotani0425様とyotani0425様のお母さまに感謝もうしあげます。ありがとうございました。