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知人・恩人など親しかった人の墓参りへ行く意味
生前非常に仲が良く親近感のあった方のお墓参りについて行く意味はあるのでしょうか? 焼き場に行き身体の殆どは大気になり、残ったのは僅かなリン酸カルシウムなどだけです。 また、親族一同とお墓に行っても、何の為に合掌をしているのか分かりません。 できれば、葬式や法事、七日参りの時も、信仰心があるわけではありませんので、 自分に嘘をつくようで、数珠も持ち歩きたくないと思っております。 私自身は一般的な宗教は信じず、科学or自己解釈によるアニミズムを信じています。 ただ、周りの空気を乱してまで自己主張しようとは思っていません。 また、私よりも更に身近に居られた方の心のよりどころを真っ向から否定する事が 正しいとは思えませんので何と無く今の状況を過ごしているという感じです。 何か、参考になる考え方や浄土真宗における考え方など聞ければと思います。 宜しくお願い致します。
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浄土真宗はよく分かりませんが、親戚・知人の墓参りにも行きます。 しかしだからといって、deep_treeさんの考え方を否定する気にはなれません。手を合わせることが、空々しいと感じることはあります、特に仕事上での付き合いの場合(故人が会ったことのない方)などです。 信仰はある規範に則って行うものです。 その規範をご自分の哲学に沿って定めればいいのだと思います。 その際、信仰上でのお参り・法事などは、個々人の心情のレベルでは、「故人を偲ぶ」ことに収束すると思います。それは、その方との思い出を懐かしむ-といったことではないかと思いますが、いかがでしょうか?
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- takakubo
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「人が亡くなって悲しいのは、その人の中に居た自分が消えてしまうからだ」と何かの本で読んだことがあります。 近しい人ならなおのこと、その人にしか見せていない自分の部分があったり、その人との共有の思い出があるわけですものね。 確かにお墓でなくても、思い出の場所でもいいし、近くの木でもなんでもいいのだと思います。その人の身代わり?という感じでしょうか。そういうものに想いを寄せるとか、手を合わせるのでいいのだと思います。写真でもなんでもいいのではありませんか? お墓参りにいかなくても、心の中で話しかける、ということでも十分だと思いますし、年に1度の形だけの墓参りよりずっと思いは伝わると思います。 私は実の祖父母の墓参りにはなかなかいけませんが、義祖母の墓参りには嫁としての立場から義務感で行っています。でもそれでやるべきことはやっているというか、お寺さんからも「きちんとおまいりするよいお嫁さん」というイメージを頂いているのですからね・・・
お礼
心の平安もありますが、周りとの協調的な意味合いもありますよね。 本音の部分も併せて聞けて良かったです。 回答いただきありがとうございます。
お礼
回答いただきありがとうございます。 お墓に参る事が嫌とか、そう言った意味ではなく(仏教徒でもないのに、周りを騙しているようで嫌ではありますが)、今回、非常に近い方が亡くなってしまい、何のために合掌しているんだろうか?ただのリン酸カルシウムなのに?と冷めたところがあります。 寧ろ、合掌すべきは、大気に溶け込んだこの空ではないかと思ったりもしています。 ただ、お墓は不思議なもので、お墓の前で故人を思い出したりと、残された者が少しでも落ち着ける場所という意味では素晴らしくも思っています。私よりも近い亡くなった両親などにとっては精神的によりどころとして大きな意味があるように感じています。 >「故人を偲ぶ」ことに収束すると思います。 具体的に、合掌をしている間、何を考えているのでしょうか? また、偲ぶというのも具体的にどういった意味なのでしょうか? お通夜や葬式の時、涙を流したり叫んだりするのは理解もできますし、私自身もそうでしたから疑問はありませんが、皆が数珠をかけ合掌している理由(何を思いながら合掌してる?)が分からず困惑した事を覚えています。