- 締切済み
脱ニート カルチャースクールでのふるまい
私はしばらく職場恐怖症のため、仕事を始められません。 ひきこもり、不登校の人のためのフリースペースに通ってみたものの、たまたまであるのかわかりませんが、逆におとなしすぎて、仲間にもなれませんでした。 社会から隔絶されている今の状態を打破すべく、最近、ある資格取得系の講座に参加してみました。 ところが、そこの生徒はほとんどが主婦でした。 講師が自己紹介をさせたのでわかりました。講師自身も主婦です。 子どもの幼稚園が同じ、なんて会話を講師と生徒がしています(第一回目の授業)。 私はいたたまれない気持ちになりました。 いつも相談事をしている、心療内科医には、その講座への参加はやめるべきと言われました。 でもまだ一度目の授業です。授業は全部で10回あります。 みなが主婦の中で、彼女らのコミュニケーションする場面が出てきたら 私は、自分の今の状態を知られるのが怖くて話もできません。 もう少し頑張ろうかと思いますが、どうすべきでしょうか。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
No.2、4です。 お礼をありがとうございます。 返信を拝読して感じたのですが、ご自身の考えはまとまっていらっしゃるのですね。 講座に参加できたこと、このことを大切にしたいからこそ、無理して通って試験に落ちてしまうような事にだけはなりたくないということですよね。 私も それが良いと思います。 理想を言えば、全部通い抜いて親しい人が一人二人出来ていたなんてところでしょうが、本来の目標は検定試験に合格することですものね。 今回は、「検定試験に合格すること」に照準を絞ると良いと思います。 お金が続く限りこのような資格講座に通って、少しずつ人に慣れて、自信を取り戻していくことは有意義だと思います。 でも出来れば何か内職をして、自分で働いて僅かでも お金を得る喜びも経験できると更に良いのではないかと思います。 もし、内職にチャレンジするのなら、今回の検定に受かってからで良いと思います。 少しずつ自分も社会に参加しているんだという経験を重ねて、着実にステップアップしている感覚を得ることが、質問者さんには大切なのではないかと思うんですよね。 >ニートであるかないか、それを口にすれば、吹っ切れたことになるかというとそうでもありません。 それを隠さなければならないとおびえている限り同じだと思います。 昔のことですが、私が大学受験を失敗し浪人していた当時ニートという言葉はなかったけれど、学生でもなく社会人でもない自分はいったい何者なんだろう?と悩んでいました。後に、ニートという言葉が出てきたとき、 「そうか、私は自分をニートだと悩んでいたんだ」と妙にしっくりきたことがあります。 存在を表す言葉って説明するときは一言ですむけれど、反って残酷なのかなと思うことがあります。 発達障害とか人格障害とか、ああいう言葉も障害という言葉ではなく、発達不調とか偏重型気質とか…。 何かもう少し思いやりのある言葉であっても良いのではないかと思います。 診断が下った人も差別されたり、そういう言葉を使う側に悪意がなくとも(自分が該当するのではないかと思っていた場合であっても)人から偏見を持たれたりするので、人を表現する言葉は本当に難しいと思います。 ニートよりも“すねかじり”の方が まだ優しさや人間味がありますよね。 誰だって、好きでニートになるわけじゃないですからね。 私が浪人時代の自分を表す言葉に、ニートがぴったりだったんだと感じたのは、その当時は劣等感や親に対して罪悪感が強かったので、自分を罰したい気持ちがあったからだと思います。だから、しっくりきたんです。 ニートと思うと辛いけれど、それはあなたの名前じゃないし…。 抜け出したいと思っていて、行動に出ているのだから、あまり卑下しないで欲しいなと思います。 浪人時代が自分で思い描いていたより長めだったということです。 自分を励まし上手になることが、コンプレックスからの脱却への第一歩ですよ。 沈んでばかりいると浮上できなくなりますからね。 今回の行動でちゃんとステップアップ出来ていますよ。 ここのところは自分でも評価すべきだと思います。
No.2です。 カルチャースクール、通ってみたらどうですか? 結局は、社会に出る足掛かりとして通おうと思ったんですよね。 最終的に就職を目指しているのなら、「就職が受験」としたら、「カルチャースクールに通うのは模試」だと思えば良いんじゃないでしょうか。 学生だった過去を振り返れば、模試をすっ飛ばして受験に臨むより、模試を多く経験して受験した方が気持ちが楽じゃありませんでしたか。 カルチャースクールでの経験は、楽しいことばかりじゃないかも知れないけれど、再び社会に出るための腕試しだとか、準備体操みたいな位置づけに考えて、 「これで気の合う友達が一人でも出来たらみっけもん」ぐらいの気持ちで参加なさったらどうでしょう。 主婦だって専業主婦を長くやっていて、社会に出て働いていた期間が短く、実家の親に頼って家事や子育てを碌にしていない人だっているし、皆が皆、自分に自信を持っているわけではないと思いますよ。 自分では殆どニートと変わらない位置づけにあると感じている人もいると思います。ただ、それを人に語るか語らないか、そのままで良いと思うのか、このままでは嫌だ、何か始めたいと思うのかの違いがあるだけだと思います。 早い時期から、再び仕事を再開して、子育てと仕事を両立している奇特な方もいますが、あまり自分を卑下して悩まない方が良いと思います。 自信満々に見える人も、何かやっていないと不安だから、不安を克服するために必死で自分を奮い立たせていたりなんて事もあります。 質問者さんが思うほど、主婦との開きは大きくないと思いますよ。 嫁ぐことなく実家から勤めに出ている女性でも、家事は親任せという人もいますしね。たまたま、環境やタイミングが良く物事が運び、大きな問題がなかったから、そのまま学生時代の延長みたいな感じの生活スタイルが続けられている人もいます。 それだって、友人に恵まれていたり、体力が比較的人よりはあって大病がなかったとか、本人の資質や隠れた努力もありますけれど。 そんなに引け目に感じなくても、というか、引け目があるのなら尚更、前に出た方が良いと思います。 周りとの大きな違いは、ご自身が思うほどにはないんじゃないでしょうか。 あるとしたら、警戒心が少し人より強いということではないかと思います。 人が腕慣らしと思うところを冒険のように思うのか、100メートル走をマラソンのように感じるのか、小川を大河のように感じるのか。 そんな差じゃないかと思います。 感じているからそれが真実とは限らないじゃないですか。 小さな物が大きく見えているだけだとしたら、実際にやってみたら出来る事ってあると思いませんか。 長く社会に出ていなかったので、本当は身近な距離にいる人でさえ、偉い人のように思えているだけではないかと思います。 実際に話をしてみたら、凄く身近な存在であったりなんてことはざらにあると思いますよ。 でも、それも声を掛けて初めて解ることなんですよね。 普段お会いしたことがない私が言うのも何ですが、カルチャースクールは通えるのではないでしょうか。 よく占い好きで占いに行く人もいますが、あれって、結局は自分で自分を占っているんだと思います。 占い師にあれこれ情報を言うのも自分だし、占いの結果を信じるのも信じないのも自分だし。 占いとカウンセリングを一緒にしては不遜ですが、質問者さんが現在メールでカウンセリングを受けていらっしゃる心療内科医ですが、質問者さんは、やり取りをしてしっくり来ないことも多いんですよね。 人と意見をやり取りしていると、本当には自分がどうしたいのかはっきり解ることってあると思います。 診療内科医の発言も、もしかすると、わざと過激なことを言って、質問者さんの本心を導こうとしているのかもしれないですよね。 反発心からどう出るのか見たいのかもしれないですよ。 カウンセリングにそのような手法があるのかどうかは解りませんが、普通に人と人が会話するときにはあることですよね。 所詮、私は素人だし、カウンセリングも数えるほどしか受けたことがありませんが、カウンセリングを受けて思ったのは、カウンセラーは受け手側の本当の意志を引き出しているだけなんだということです。 だから、私にはカウンセリングは意味のないものでした。 話をしていても直ぐ自分で答えが出てしまうし、カウンセラーは私にこうした方が良いということはあまり言わなかったからです。 多少の助言はありましたが、助言が欲しいのであれば、カウンセリングは方向性が違うのかなと思いました。 どちらかというと、自分の側面を浮き彫りにするとか、隠れた部分を再発見、再確認するとか、自分で自分を発掘しているような作業だから、私にはあまり意味が無く思えました。カウンセリングを受けても、普段頭の中でやっていることとさほど開きを感じませんでした。実際、私は来る必要があまりないようなことを言われました。予想に反してカウンセリングは自分で話してばかりだったし、肯定をして貰えて、普段人には話せないことも聞いて貰えて、気持ちは少し楽になるけれど、結局、最後の最後は自分で解決しなくちゃいけないんだということが解っただけでした。 通った感想は、自分で自分を救えるのは自分しかいないんだという感じでした。 >講座参加は挫折したとしても、検定だけは受けたい。合格したい。 でもその医師は、合格も無理、と言うんです・・。 検定、高得点で合格しましょうよ!! 講座も通い通しませんか。 「悔しいと思う気持ちが向上心に繋がるから、発破を掛けられたのでは?」 などと、私は思ったりするのですが。 どうですか、通い抜いて合格を目指しませんか?
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
プライドが高い、そんな印象ですね。 自分のプライドに見合った力がない。 主婦たちと交流をもってついでにその人たちに自分の状況をつたえて甘えてみてはどうですか。 それができたら少しは生きるのが楽になると思いますよ。 講座をやめるのは簡単、でも続けてそれを楽しむ方法を考えるのがポジティブってものでしょう。
一口に主婦と言っても、いろんな人がいますから…。 子供がいなくて、寂しさを紛らわすために犬や猫を飼っている人。 仕事に打ち込んできて、子供を産む機会を逃してしまった人。 子供の手が離れたので手に職を付けたいと思っている人。 …まだ一回だけの参加だから、カルチャースクールの参加者全員の事情は分かりかねますよね。 でも、質問者さんが先生や園児がいるお母さん達と距離を感じてしまったのは解ります。 最初から壁が見えているようで辛いですよね。 こんなことを言うと当事者の方々から叱られそうですが、幼児の子持ちの主婦が集まると独特の怖いムードがあります。 かくいう私も子持ちですが、以前、宿舎住まいだった頃、小学校中学年以上の子供を持つお母さん達とは話しやすかったのですが、園児のお母さんが持つ独特の雰囲気には馴染めなくて、話をするのが少し苦痛でした。 園児の母親は、ともかく子供の話で盛り上がるのです。 目に入れても痛くないという感じで、運動会のビデオがどうとか、習い事がどうとか、予防接種がどうとか、子連れでランチならどこそこだとか、ともかくハイテンションなんです。 子供命という研究熱心さも情熱も私にはないので辛かったです。 私は子供はともかく健康で、悩みがあったら何でも相談してくれて、友達は最低でも一人いて、いじめに遭わなければそれで良いという感じで大ざっぱなので、細やかな愛情を注ぐお母さん達といるのは苦痛でした。 話がそれてすみません。(-_-;) でも、主婦ばかりのカルチャースクールでも望みが薄いとも限らないし、お母さんというよりもお父さんぽい主婦もいるかもしれないし、あと、2,3回ぐらい通っても良いんじゃないかなと…。 そこまで通えたら最後まで通えるかもしれないし。 主治医の先生の仰る通りかも知れませんが、せっかく向上心が芽生えたわけだし…。 本心は資格を取りたいんですよね。 「参加出来た」こと、このことは貴重な経験ですよね。 もし途中で止めることになっても、絶対「プラスになった」と思って欲しいです。 「ここまで頑張れた」と自信を付けて欲しいなと思います。 こんな回答しか出来ませんが、ご自身の気持ちを大切にして欲しいと思います。
お礼
親身なご回答、ありがとうございます。 単に、主婦とニートの私では話が合わない、ということではなく(もちろん、それはわかっておられると思いますが)、彼女らに引け目(劣等感)を感じている、私と同い年、或いはそれより下の人たちがちゃんと人生を順調に送っている、大人としてやっている、社会的にも認知されている、だから、お父さんぽい主婦であろうがなんであろうが、羨ましいのです。 私がニートである、という事実そのものもそうだけれど、もっと内面的に、引け目になることがあるのです。自立していない、ということとか。 そういう自分を良く知っているから、内面的にも社会的にも大人でない自分、そのことに強く引け目を感じていて・・・ 心療内科医、と言っても、通院しているのではなく、メールのやり取りだけなんです。この医師は非常に極端なことを言います。一般の医師は私にアルバイトを勧めますが、絶対にしてはならないと言うような判断をその医師はします。 とにかく、楽しんでいろとそればかり。社会的にどんな生き方をしていようが、そんなものはおかまいなしで良い、のようなことを言います。 わがままほうだい、やりたい放題、親からお金をむしりとってでも遊べ、そうやって自分を出していけ、自分を確立していけ、と言います。 そのアドバイスには多少懐疑的ですが、なにせ、無料なため、日々の思いをぶつけてしまって(メールのやり取り)・・・ 私も回答者様がおっしゃるとおり、講座への参加はもう少し様子見の方向で、初回で敗退したくない。講座参加は挫折したとしても、検定だけは受けたい。合格したい。 でもその医師は、合格も無理、と言うんです・・。゜(PД`q。)゜。 私はもうテキストは半分くらい読んでしまいました。 講座のほうは、講師が、生徒にテキストを読ませ、大事なところに線をひけ、というものです。あんまり講師自身の説明はありません。 それに非常に安価な講座なので、やめてもそれほど苦になりません。 ですが、やめることで、また自分の中に負の経験(挫折)が増えてしまうことが怖いし、でも無理して嫌な人間関係の中に身を置き、ますます世間を怖がるようになることも避けるべきかとの考えもあります。 今の心境は、たとえ講座参加を挫折しても、絶対に高得点で合格したい、というものです・・・
- blazin
- ベストアンサー率50% (20256/40157)
やむを得ない部分はあるよね。 カルチャースクール系はやはり主婦やご老人が圧倒的に多いですから。もちろんそういう世代を超えたり、自分と環境が違うが故に絡みやすいと言うか、気軽に関われると言う人もいるんですよ。 貴方の場合はどうか? どういう場所に入っていっても、それなりにお互いを知り合う場面というのは出てきますからね。 貴方がたまたま参加した講義は凄く生徒同士、先生と生徒が近い。 それは今の貴方にとっては少し苦痛かもしれないよね。 良い意味で大学の一般教養の授業を受けるような、気軽な、距離のある形で参加できる形の方が良いのかもしれない。 勿論そこに参加したメインは資格取得であるという部分で何とか貴方なりに乗り切ってみようという選択もひとつだと思うけど、貴方を見ている心療の先生が辞めても~と言ってる位だからね。 そこは無理しなくて良いんじゃない? 貴方なりに何とか新しい風を引き込もうとして動いてみた事実には意味があるんだから。ただその結果としての現実はちょっと今の貴方には合わなかったと。でも動いてみないとそれも分からなかったんだしね。 今の状態を知られるのが~という部分もあるように、貴方の中で前に進みたい気持ちと同時に、まだ今の自分をきちんと受け止めて私は私という部分でのスタートが切れてないからね。 そういう部分に対してももう少し落ち着きと言うか、切り替えが創れてから動いても良いのかもしれないよね。 それに10回とか、そういう継続性がきつければ、先ずは1、2回で終わる害のない講義なり講演に参加するようなハードルを下げる選択もある筈だから。焦らずに貴方のペースでね☆
お礼
ご回答ありがとうございます。 私は私、と思えないままで、参加したのがまずかったのかもしれませんね。 かといって、いつまでたってもそのように思えないわけですが。。 そのような内面的な部分の問題を早くなんとかしたいものです。 資格取得のほうは、あきらめたくはないのですが・・ 講座への参加は、時期を見て降りるかもしれません。
お礼
一生懸命に考えてご回答をくださり、ありがとうございます。 この講座は色彩検定講座、というもので、 直接仕事に結びつくか、というとあまり期待できないと思います。 この講座を受けてみたいと思ったのは 自分の好きな分野(色や美術)について、少しずつでも深めていきたいと思ったからです。 人にとっては何でもないことを、とてつもなく恐ろしいことのように感じている、それが事実ではなくて、自分の心の中のできごとでしかない、というのは本当だと思います。 しかし、私の今の心境ではそう感じてしまいます。 心療内科医は、私のことを親身になって考えるというよりはいい加減に考えているようです。 私は人の言葉をダイレクトに受け止めてしまいます。スルーできないんです。oversensitiveのようなんです。 私は、精神状態が悪くなければ、勉強のほうもわりとスムースに進められます。 でも、精神状態がおかしくなると、自分の能力に影響がおよび、うまく発揮できません。 精神的に動揺し、恐怖の中でテストを受け、落ちてしまえば私は悔しい思いをします。 講座における人間関係と勉強、その二本柱として考えた場合に 本来の目的である検定合格を第一に考えたいのです。 だから講座のほうは、もしかしたら途中でやめるかもしれません。 独学で受けることを考えています。 警戒心が強いというか、臆病というか過敏なのです。 主婦の方は、生活そのものはニートと大差ないとしても、やはり社会的認知度が違います。 主婦でない私には、凄い存在に見えます。 まず精神的にも自立していますし、ちゃんと他人である夫と暮らしています。そして子どもを出産し、育てています。 妻、母、嫁としてのメンタリティがあります。 主婦は社会人と認知されますが、ニートはまだ社会人ではありません。 ニートであるかないか、それを口にすれば、吹っ切れたことになるかというとそうでもありません。 それを隠さなければならないとおびえている限り同じだと思います。 気が楽になりたいんです。 そのためには、逆に勉強をしてしまって、講座に参加したときに授業がすいすいわかる状態にしておこうかとも思っています。 検定合格は私にとってどんな意味があるか。。。私にとって劣等感の補償でもあると思ったりします。