日本の書道
書道を趣味でしているのですが、
現代書道は、昔の様に楷書がほとんど内容に思います。
以下は私の想いのままに書きなぐった感想ですが、それを踏まえて、ど言う言うことなのか考えておられる方なんでも良いので、この混沌を整理する方法を教えて下さい。
書道の展覧会に行っても、草書が多く、よく読めないものが多いです。
日展などでもそうです。昔の人は、楷書をしっかり書いていた。
今の人は筆を持たないので、書けない。
視覚効果と見る人への目新しさや刺激を考慮して、設計して、何十枚も書いて、
作品が出来る。
昔の人は、1枚で書いた。日常の目的のために書いたものが、美しかった。
そこには、うまく書こうという意志はなく、積み重ねた、筆と身体の馴染みと、
落ち着いた精神が、自然と均整のとれた楷書に現れた。
学校教育では、書道をデッサンとして教えている。
見本の文字をぬりえの様に黒に塗って、形を観察する方法だ。
漢文を読むことはない。
書道は、一瞬の状況を表現出来る芸術だと思う。
修正不可能で、その造形には、無限のパターンが有り、
ある美の法則がある。
書道の偉い人に聞いても、漢文が読めない人いて、書道史や美学に興味がない。
なぜなら、多くの人に質問してわかったたらだ。
宗派のような、団体で動いている。
これは絵や音楽や建築などの美でも言えることなのだろうか。
そもそも美の役割は何か。
弱者を安心させるものではないのか。
普遍的な美の概念が無くなった現代に意味あるものは、
環境破壊により他の生命体を死に追いやり、生命を大量生産し、
ブラックボックスのボタンを押し、
美味しいお肉が食べられる。
美も同じで、その時の刺激が得られる年代、社会的地位の者がボタンを押して、
一時しのぎの大量生産的美なのだろう。
美など自分が、生活出来ればそれでいいし、深く考えるものでもない。というような、認識が広がり、
物理シュミレーションで生まれる。
科学による自然模写と時間がかからなくて済む、権威的な自己表現で十分だというものだろう。
なので、書道は滅びた。
滅びの意味もわからないうちに滅びている。
可哀想な過去の書道家。
お礼
ありがとうございます!! どうやら優れた文字だけがもつ「何か」であることは 確かのようですね。 rin_2さんのおっしゃるように、 表現上の趣のようなものなのか、 それとも「気」という言葉が示すように、 目に見えない迫力のようなものなのか……。 また、金石文や金石学と「金石の気」を 結びつけて考えていいのかどうか、 ナゾは深まるばかりです。 書道の現場で使ったことがある、または聞いたことがあるという方 からの解答をもう少しお待ちしたいと思います。