趣味で小説を書く。まず、小説のテーマを決める。そして、創作ノートにストーリーやキャラクターの得意や好きなものや嫌いなものなどを書く。そこで、創作ノートにはメモのように断片的(片言)に書いて、イメージしていく。風景を描写する時に、具体的あるいは抽象的に描くなどの好みで、風景は文体で浮かび上がるものなのである。言葉で風景をイメージさせるといっても過言ではない。人物描写について、一人称か三人称を考えることになる。キャラクターの細かい履歴は考えない方がいいと思うが、理由として書いていくうちにそれぞれイメージできていくからだ。性格も同じで、意外な一面が作りにくくなる。
小説の発想とはなにか。既存小説を精読して発想する。それは、20冊読まないと小説とは何かを初心者は分からない。三島由紀夫は「文章読本」の中で、精読者が作家になれるという前提で、プロの文章とはこんなものだと威張りながら書いた。つまり、書く前に読めと言いたかったのだ。しかし、私はそんな考えでは単なる本好きにしかならないと思う。小説家が小説の中の笑い箇所に笑っているのと同じである。そんなのでは一生小説は書けない。小説家には、相手を笑わせる方法を考える、それも不特定の読者に。既存作家を読んで笑えるのは、自分ひとりかもしれない。今まで笑わせられなかった人を小説で笑わせることを考えないといけない。しかも、現在は活字離れが著しい。小説を読まない奴は小説を書くなという時代ではない。素人の同じ境遇つまり読まない人のが新しい読者に売れる。しかし、私はそれでも小説を20冊以上読まない奴に小説は書くなと戒めたい。
小説を20冊以上読めと言った。しかし、正しく言えば、好きな作家を20人つくれということである。だから、小説家になるためには、50冊・100冊は普通に本棚にあると思う。小説に詳しくなり、小説の文章技術つまり理論を頭で感じることができる。しかし、それには既存作家の小説の一段落を紙に手書きで丸写しするしかない。それを繰り返せば、ある作家の真似が上手にできる。そして、ある作家の真似をしながら書く。つまり、それが文体を鍛えるための勉強、つまり真似ることだ。
21世紀の文学的神話論を私なりに書きたい。それは私のオリジナルだ。現在はポスト構造主義である。つまり、ポストとか後という意味だ。つまり、構造主義以降という事だ。そこで、ジェンダーやセクシャルマイノリティや経済格差や生きる希望を失うなどあった。つまり、現在は社会的弱者を主人公に描く。例えば、24歳ニューハーフで子供がいて性転換手術を受けた女性とか。または、40歳でリストラされ、家に帰らずホームレスになった男性。あるは、27歳で乳がんや子宮ガンになった女性。そういう人って、社会的弱者になる。そして、現実的でもある。そういう人って小説でも弱者になるのか。いや、ならない。社会的弱者と小説内弱者は違う。小説の中では社会的弱者でもきちんと与えられる場所がある。それを、あなたが描くことになる。
後、小説を読めば小説は書けるか。実はある分野の小説には既存小説はあまり意味をなさないものがある。それは、科学小説や経済小説や歴史小説だ。その場合は科学書やビジネス書や歴史書の類を読むことになる。そのジャンルの小説では、全くの指から出まかせの出鱈目を書くか、資料をもとに若干の嘘を書くかは大きく違う。臨場感を持たせるためには、研究資料や解説書(例えば、聖徳太子はそれに基づく資料を集めることになる)に基づくしかない。それが大切だ。
つまり、小説のアイディアは日常生活から起きる。ただ、日常生活で鈍感だから書けない。私小説を書くときは日常生活に敏感でないと書けない。ある、ありふれた日常を描く事だから。
お礼
上手にパクれる人は才能のある人だそうです ありがとうございます!!