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人を裏切って得た幸せ・・・
人を駒のように利用し、得るものだけ得て、嘘を付き裏切って得た幸せでその人は幸せになれるのでしょうか?
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自分の短い人生から導いたものだけを書きます。すでに共通の認識となっているものとは異なるかもしれません。ご容赦ください。 この世は思いのほか懐の広いものです。 自分自身の心持ちですら思いがけない幅を持ちます。 なにが幸福でなにが不幸で、なにが正しくなにが不正かということも、突き詰めていくと本当のところは分かりません。 裏切りがどういうことなのか分かりませんが、主体は自身として考えて申しますと、自らが選んだ生き方であれば幸、不幸の違いはあまり問題ではないと思います。 自身の指針に従って、自身の責任で生きること。 愛を携えていくこと。 この二つを持っていれば、人はそうそう悪人にはなれないと感じています。外から眺めると人さまざまの感じ方があるでしょうが、それがまたこの世の懐の広さの一面であると思います。
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- henmiguei
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#7の方が言われていることに全面的に賛成です 知人でそんなのがいます 裏切り、騙し、不道徳、他人の足元をすくう 何の後ろめたさもなくやってのけて成功した奴がいます 超大金持ちになって怖いもの無しでやっていましたが 調子に乗りすぎて警察の世話になる様な事をして 逮捕されたときに彼を知っている回りの人たちの多くは 「やっぱりな、阿保やな、ざまあ見ろ」 などと同情する人が少なかったです 多分本人は幸せだったに違い有りません 人伝に効いたところ裁判で刑罰が決まったときに 「残念やった」 「あれさえ(逮捕された事)美味い事やっとけば今頃は左団扇やったのに」 といっていたそうです 反省はしていなかったそうです。
- gorisansei
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後ろめたい気持ちが少しでもあるのであれば幸せとは言えないでしょう。 何とも思わない人間であればそれは幸せでしょうね。
- tomo_28
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人を駒のように利用とは・・・その方との関係は? 友人それとも同僚? 上下関係? 得るものだけ得てとは・・・地位それとも名誉? 金銭? 嘘をつき裏切った・・・それは最低ですね。 それでは本当の幸せを得ることは出来ないかも知れませんね。 何があったか存じませんが、その方ときちんと話をされては如何でしょうか。
私の経験上の回答になります。また、内容に自分と他人の認識、捉え方の違いにより共感に至らないことをご理解ください。 刹那的に 幸、不幸、 つまる、つまらない、 満足、不満 刹那的に見れば、幸せになれるでしょう。 しかし、長い目で見たら、私はなれないと思います。 他供に共存する幸せでないもの、言い換えると、犠牲の上に成り立つ幸せは、いつか、自分も犠牲になるということを心のどこかで持ち続けなければなりません。賢明な人なら、明確に持ち続けるでしょう。 人は、老います。また、その日の体調、さらに言えば、外的要因や戦略的要素以外の要素によって明暗が分けられることもあります(単純に言うと、運命的なもの) 常に、自分が犠牲にならない立場であり続ければいいですが、それが維持できなくなった場合、やはり、不安になります。 また、常に、犠牲の立場を回避することを望む選択をする以上、疑心暗鬼になりがちです。これが強くなると、他のささいな行動に気になります。 さらに、心身消耗している時にとって一番大切なものは癒しでありますが、人の犠牲の上に幸を築いている人は、周りにそういったことをしようとする人は少ないです。 さらに言うと、絶対的孤独的な悩みについて支えて貰える人は少ないでしょう。絶対的孤独な悩みというのは、他人に理解しがたい悩みです。なんで、そんなことで悩んでいるの?みたいな悩みです。 大抵の人は、 誰かを犠牲にすること 誰かの犠牲にさらされること を「仕方が無い」と言って認識した上で反省をしない場合、そういったことに拘ることがどんどん低下していきます。 極端な話、人の命すら軽くなると思います。 犠牲する人は、人の命の価値観を軽くし、 犠牲にされた人は、自分の命の価値観を軽くしていきます。 そういったものは、真に相手を大切にしたいと思う愛という気持ち(意識ではなく、気持ち)は起こりません。 嫌な存在であったならば、切り捨てるという選択をしてしまうようになります。 産まれた時は、母親の腕の中で眠る安心の心地良さを充分に味わったはずなのに、それがどんどん無価値のものになっていきます。 これ以上は、人の感性がものを言う事になります。 真の心身疲労している時に、人から何も言わずに大切にされると、なんか落ち着きます。焦って悩みや苦しみから抜け出そうとしているのに、抜け出せないもがきの中に、ちょっと、心を休めて、それが体を休めることになって、疲れが取れます。 それって、なかなか得られることではないですし、恋人や家族であっても得られることはそれほど多くはないと思います。 また、他人を犠牲にしている生き方をしていると、自分が他人を犠牲にしない生き方がどんどんできなくなります。心のどこかで、馬鹿を見る、なんでこんなことしなければならないんだ。損だ。と思うようになります。その結果、そういった人が寄ってこないし、そういうものを受けることもない。 犠牲にした人を思い出しては、胸が締めつけられます。 周りくどいですね。 ようは、一度でも大きな他人を犠牲にする生き方をした場合、その亡霊によって、その亡霊にふれ伏した生き方しかできなくなります。その亡霊に逆らえども、絶対に、逆らう生き方を邪魔する、引きずり落とす心や存在が表れます。 人を大切にするということは、未来においての幸、不幸をわきまえ、私利私欲を捨てるということです。他人を犠牲にする人は私利私欲、自己欲、自尊心欲が強いのですることができません。他人を犠牲にする生き方がこの欲がどんどん強くなっていきます。 自分の過ちを認め、懺悔し、悔い改めて、変われるものです。それをせずに、することはできません。賢明な人ならなおのこと。 生存競争のような、常に戦場に居るような人生が私は幸福だと思いませんし、いつか、狩られる立場になることも、安穏と死を向かえる人生とは思いません。
- elixir_200
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幸せにはなれません。 常日頃から正しい事をしていなければ、思わぬ時に不幸がやってきます。 これから心を入れ替えて正しい行いを心がければ、この限りではありません。 どこで誰が見ているかわからないという事です。
- hamakkotarou
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自分で必要なものを手に入れられるのなら,わざわざ他人を利用して 必要なものを手に入れる必要はないでしょう。 他人から必要なものを手に入れているとによって自分が失っているものが あることに気付けない不幸というのはあると思います。
幸せって、その人が決める事です その人が、幸せって思えば、幸せです