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ドビュッシーの作風の変化

初期のころのドビュッシーは、斬新さを取り入れながらも、ロマン的というか、様式的というか、一般に親しみやすい曲を作っていたのですが、後期になって難解な作風に代わって行って、回帰することもなくなったようです。なぜこういう変化が起こったのでしょうか?

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  • gldfish
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回答No.2

それは、ピアノ曲に限っての話ですね。ドビュッシーは管弦楽(あるいはそれ以外の器楽)では、早くから革新的で今で言う「近代的」な作品を生み出していました。なぜピアノだけが本領発揮が遅れたのか・・・それにはいくつかの理由が挙げられています。 ドビュッシーは若い頃サロンに入り浸っていたそうです。サロンとは、当時の貴族や文化人が集まって会話やピアノ音楽を楽しんだりする社交場のようなものです。(生まれが貧しかったせいか、ドビュッシーには貴族趣味なところがあったとも言われていますね。) そこで嗜まれる音楽は専らいわゆる「大衆的」な音楽が主流でした。質問でも述べられているような「ロマン的というか・・一般に親しみやすい曲」のようなものだと思っていいのではないていでしょうか。 この生活習慣が、少なからずドビュッシーの初期のピアノ曲における音楽的嗜好に影響したと言われています。今でも、より革新性・独自性・芸術性が追求された中期以降のピアノ作品に比べ、初期の彼のピアノ曲(例えばベルガマスク組曲や等)は「サロン風」と皮肉って形容される事も多いですね。 それから、ドビュッシーは作曲家以前に、「卓越したピアニスト」から始まった音楽家だったという点。 基本的にピアニストはクリエイターではなく「既存の作品を準える人」ですね。「一作曲家」としての客観性を飛び越えて、「一ピアニスト」として過去の作曲家達のピアノ曲に向き合うという事も多かったでしょう。ドビュッシーがピアニストとして鍛えれば鍛える程、ピアノ作曲という観点では頭が硬くなってしまっていた・・・なんて考えてみるのはいかがでしょうか。 ちなみに、ラヴェルはドビュッシーよりも早くから革新的なピアノ曲を生み出していました。ピアノがあまり上手くなかったから過去のピアノ曲の流れから早く脱却出来た・・・という見解もそう遠くはないのかもしれません。 ドビュッシーはいわゆる「自分の才能を見抜いている人」でした。そんなタイプの表現者が、過去やり尽くされてきたスタイルで終わらせる事無く「自分にしか出来ない今までに無いもの」を追求するに至ったとしたら、それは至って自然な事なのかもしれませんね。 もしくは、芸術において新たな潮流が次々起こっていた「近代ヨーロッパ」という当時の気風も勿論影響はしていたでしょうね。当時、欧音楽界において「時代」を作り上げていたサティ・ラヴェルの存在もしかり、アーティスト同士がお互いの「革新性」の後押しをしていたのでしょう。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ピアノ曲以外でも手記の管弦楽曲では、ロマン的な傾向が多いですね。「春」とかあります。 サロンというところは、やはり、貴族的趣味を満足させると言う要素が大きいのでしょうかね。どうしても心地よい音楽と言うものが要求されることは多いでしょう。また、初期は伝統性を参考にしつつ作曲することから完全に脱してはいないと言うこともあるのでしょう。 名ピアニストということも影響するでしょうね。ショパンに詳しかったらしいです。 また、革新性を追うということも、芸術性の追求と言うことと平行関係にあったのですね。

その他の回答 (1)

noname#192232
noname#192232
回答No.1

ワーグナーなど,それまでの作曲家達に和声は駆使し尽くされ, もうそれ以上のものは見出せなく,そして,調性の崩壊,自由な拍子, それまで禁則とされていたことに手を出す,教会旋法を使う…など, それまでの様式を無視した新しいものを探らなければならない時期に なっていたのではないかと思います。 もう過去には戻れない, これまでと同じことをし続けるわけにもいかない…, そんな中で前に進むしかなかったのだろうと思います。 牧神の午後への前奏曲が現代音楽の始まり?という説もありますが, その後の現代音楽となると,さらに難解です。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 初期ではまだ伝統性というものからはなれてはいませんでしたが、その中で革新的なものの発露があったという作風のように思えます。芸術的追求に誠実であれば、伝統への回帰よりも、より革新的なものを作ろうとするのが彼の哲学なのかもしれませんね。