• 締切済み

因果について質問です。

悪いことをすると自分に返ってくると言いますが、根拠がわかりません。 先生に聞いても納得のいく答えがかえってこなかったので、ここで質問させて頂きました。 誰か教えて下さい。お願いします。

みんなの回答

  • rukidayo
  • ベストアンサー率13% (25/188)
回答No.13

とりあえず根拠はないよ。 一般の認識 みんな誰しも生きていけばいいことも悪いこともたくさんあります。 そして、悪いことが起きたらそれを自分が今までした悪いことをしたせいと勝手に位置付けしているだけです。 辞書の認識 「人を殴ったら仕返しに殴られる」というように、自分がしたことに対して自分にとって悪い結果が起こることをいいます。 ただ、世の中は悪いことをしても必ず自分を貶める結果になるわけではないですけどね。 極論を言えば、犯罪(悪いこと)をすれば警察に捕まり刑務所に入る(返ってくる悪いこと)こととも言えるよ。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.12

「悪いこと」には「自分の心に悪いこと」「他人に迷惑をかけること」「自分に対する他人の評価を悪くするもの」があると思います。 この中で「自分の心に悪いこと(貪り・怒り・無知の悪感情)」はそれ自体が苦しいですし、心の癖として残ってしまいますし、更なる悪感情・思考を生み出しやすくなってしまうと思います、どんどん生きにくく…。そして悪感情を持つと回りの人間関係で悪影響が出ると感じます(これについては感じる・知る人と感じない人がいるようです。結構気持ちの悪い感覚を感じる人もいるようです。個人的には皆、無意識にも感じて反応していると考えてます。)。そうすると何かと生活しにくくなりますね。 残りの二つは問題なく理解できるでしょう。 この三つの兼ね合いでその行為の価値が決まると思います。 幸福になりたければこの逆のことをしていけばいいと思います。 ブッダが語る因縁(業)の話はブッダ自身が「複雑でまともに理解できるものではないから、あまり考えすぎるなよ」と注意を促しながらも「このようなことがある」と語っていますね。 とにかく「いろんな種類のいいこと」をやっておけばその分今生で幸福になるし、過去の悪業の実りを避けられるかも知れないから安心だよということだと思ってます。来世がもしあるならそのことに関しても悩むことも無いでしょう。と。 僕の勉強しているのはパーリ語に記された仏典(初期のお釈迦様の教え)です。結構スッキリしていて(信仰よりも検証納得を勧める)面白いですよ。 旦那の勤めとして女性にはときに飾り物をプレゼントしましょう。 なんてアドバイスがあったりもしますw(シガーラ経) 僕の回答が貴方の役に立てば幸いです。 幸福であれノシ

  • 20097
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.11

よく罰が当たるとか、過去の因縁だとか言われますが、そんなものは考えても分かりませんし、確認のしようがありません。ですから悩むだけ無駄でしょう。昔の人が、悪い事を止めさせる為に作った話かもしれません。 しかし、悪い事が良くないのは本当の事です。それによって、自分に返ってくる物を、他の人も書いておられますが、確認できる事だけ挙げても、復讐であったり、それに対する恐怖であったり、要らぬものに気を取られて、大事なものが見えなくなる、といった具合にあります。 また、悪事が例え他人にばれなくとも、それらを軽んじ、もっと重い犯罪に手を染めるという、さらなる不幸を呼び込むような悪循環に嵌って行く可能性もあるわけです。 言ってみれば、自分の内面と外面に対して、苦しみが襲いかかってくるわけです。それらは、けっして、訳の分からない、根拠のない話ではありません。 ちなみに、これらのことは、「ブッダのことば」(岩波書店)等の原始仏典に書かれてありますので一度は読んでみる事をお勧めします。

  • little-m
  • ベストアンサー率44% (45/102)
回答No.10

 私はこう考えています。  たとえば理由もなく誰かに殴られた場合、(相手がレスラーとかは別として)自分と同じような力の持ち主なら、何故殴るんだとか言って、やり返したりすると思います。  同じように、誰かに嫌な事をされた場合も、ある程度ケースバイケースですが、その人間にそれなりの報復に似た事をしようと考えます。(黙っていては又されるかもしれないのでそのまま済ます訳にもいきません)  嫌なことを多くする人は、他人からこういった対応をされるので、自分にも嫌な事がある程度返ってくる可能性が高くなると思っています。  これは暴力に関しても、言葉などの精神的な事に関しても同じことが言えると思います。  力や権力が強い人間の場合でも、周りに嫌なことを続けていれば、相手は表面上は従うかもしれませんが、内心ではその人間を避け嫌い、何か良い方法があればその人間に報復しようとすると思います(そのままでは自分の幸福が守れません)。ですので、力や権力が強い人間の場合でも、例えば年老いて力が弱くなったときなどに返ってきたりする可能性が高くなるのではないでしょうか。  自分が幸せになるには、自分だけの幸せだけでなく周りの人間も幸せになるような(せめて周りも不幸にならないような)事を考えて行動していないと、結局は自分も幸福にはなれないのだと思っています。

  • youchan37
  • ベストアンサー率37% (248/669)
回答No.9

因果、自業自得、天罰… 似たような意味かも知れません。 すっごくお暇なら(苦笑)、こちらを読んでいただくと参考になると思います。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4992458.html

回答No.8

hasire750様が仰っているドミノ理論とか難しい事を抜きにして 簡単に言うと・・・「事象」に対して「結果」があるという事です。 これを「因果応報」という言葉に当てはめると、因果(事象)に対して 応報(結果)があるという事になります。 もっと簡単に言うと、仮においしいりんごをプレゼントしたとします …これが因果ですね。 そして、それを受け取った方がそのりんごを食べて美味しかったので、 その感謝の印においしいみかんをくれたとします…これが応報ですね。 しかし、これは応報であると同時に因果でもあるのです。 何故なら、質問者様が感謝をしてまた何かをプレゼントする可能性が 出てくるからです。 この繰り返しが因果応報の世界と似ていると思います。 また、殺人をした犯人を憎み、自分が殺したとしましょう。 しかし、その犯人にも家族や友人がいるかも知れません。 そうした時に、その友人や家族が自分を殺しに来る事もあります。 もちろん、殺人犯に対しての報復も因果応報の一つでしょうが、 それによって引き起こされる事もまた因果応報なのです。 良い事をしても悪い事をしても必ず何かしら報いがある。 要するに、因果応報というのは永遠に続く連鎖でしょうかね。 もちろん、続けるか続けないかは当事者の本人達に委ねられ てしまうと思いますけれど。 どこかの住職さんが「因果応報は魂自身に宿っていて、例え 生まれ変わったとしてもその理(ことわり)は世界が存在する 以上、永遠に続いて行くものです」と言ってたのですが、 私自身も死や前世の事は知らないとは言え、今生きている 経験から「たぶんそうなんだなぁ」と納得してしまいました。 質問者様の求める回答かどうかは分かりませんが、一つの 参考になればなぁ~と思います。 (世の中、根拠だけが全てではないと思いますし、死後の世界に 根拠を求める事も不毛に思えますので)

  • nandakka
  • ベストアンサー率23% (45/190)
回答No.7

なんだ、既に自分で答えを出しておられるじゃないですか。 >いい行いをしてた方が生きてて楽しいですもんね。(NO.1) それがつまり因果ということですよ。 「いい行い」をした報いとして「生きてて楽しい」んです。 悪いことをした報いは、「悪い事をするような人間になってしまった」 ことです。 …とか何とか、これ実は昔何かの本で読んだことなんですけどね。

回答No.6

是は禅問答にも出てきている例題の一つです。漢文にすると分かり難いので、簡単に書いてみます。 是は何処かのコピーです。 >>>説法の後、いつも残っている老人がいた。和尚が聞いてみると、昔住職をしていたが、ある日修行僧に、悟った人は因果の世界に落ちるかと聞かれ、因果には落ちない、と答えたらそれから五百回も野狐に生まれ変わってしまったという。 老人は改めて和尚に、悟った人は因果に落ちるか、と聞いた。和尚は因果はくらますことはない、と答え、老人は悟りを開いて辞した。 食事の後和尚は山へゆき、野狐の死骸を示し丁重に葬らせた。夜になって和尚が弟子達にこの話をすると、ある僧が、その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたかと聞いた。和尚がもっと近くへ来い、教えてやろうというと、その僧は進み出て和尚の横面を殴った。和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った。 無門和尚の解説:因果に落ちないと言ったら何故野狐に堕ちたのか。因果をくらますことはない、と言ったら何故野狐を脱したのか。このことが見通せれば、この老人は五百回の野狐の生を風流に送ったことが判るであろう。 この事の示している事は人間は自分の事が分かっているのか、分かっていないのかがポイントになります。自分自身が「何者か」と言う事です。自分は何者か?或いは人生とは何であるか?或いは人間は何処から来て何処へ行くのか?と言う事が徹底しているのか?或いは徹底していないかと言う事になります。 悟りを開くと言う事が「自分自身を知る」と言う事だからです。自分自身が分からないという事が全ての迷いの根源と言えるからです。人間の悩み、苦しみが全てここから始まっています。自分自身に苦しむのが全ての「苦」の始まりとなっている事の例題と、禅問答がその全ての解決を示している回答の一例と言えます。 自分自身が分かったなら因果を眩ませないという事が分かります。

  • divi
  • ベストアンサー率22% (43/194)
回答No.5

因果というのは、悪い事だけを指すのではなく、 全ての事象には、原因がありその結果があるという事を意味しています。 悪い事をしても、良い事をしても、自分が原因となってるものは、 やがて何らかの形で結果として、自分に還ってくるというものですね。 そこで、 「悪い事すると、それが自分に返ってくる」 これは、そこから取り出された一例であり、 「人の道」に対する「戒め」的な言葉ですから、 「絶対の根拠」というものとは、根本が違うのですよ。 どんな風に生きればいいのか、正解(根拠)などないけれど、 より良く生きるためには、どうすればいいか模索しますよね。 そのいっぱいある答えの、1つという感じですね。 「舌切り雀(一例)」とかの昔話は、ご存知ですか? そのような物語の中にも、沢山登場しているのですよ。

  • hasire750
  • ベストアンサー率14% (153/1066)
回答No.4

ドミノ理論 計算方法 ある事象Aが起きたとき、ドミノ理論によって、事象Zが引き起こされる確率 (Aが起きたときZが起こる確率) = (Aが起こる確率)×(Aが起きたときBが起こる確率)× ・・・ ×(Yが起きた時Zが起こる確率)

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