昔から、そんな人は多く居たはずです。
でも、多くの人は、実家だとか嫁ぎ先だとかいろいろなしがらみがあって、死ぬ事など許されませんでした。
病気でさえ親類縁者に多大な迷惑を及ぼすからです。
それに死生観ももっと身近にあって、厳しいものでした。
でも、現代では、まず、死に対する恐れも抵抗もなくなっています。
「最近子供は倒れても身を庇おうとしない」「倒れた子が居ても知らん顔」「カヌーの練習で転覆しても起き上がることをしない」
という声があちこちで聞かれます。
その分、死という言葉にも無抵抗になり、簡単に死ぬことを考えてしまいます。
それにもう一つ。子供の頃に大人になる意味を考えさせすぎています。
「考えよう」という事が必要以上に課題とされ、答が無ければ無意味なもの、無用なものとして扱われます。だから、生きている意味が無ければ死ぬしかなくなってしまうのです。
全ての人に生まれた意味などありません。単に子孫を残すためだけです。そして、いい子孫を残すために伴侶を見つけ、いい親になるのです。
学歴や収入ではいい子孫は育ちませんが、現代ではそれすらも自然箒で捨てています。
私は精神的に大きなストレスを受けた10年以上前から、「死んだらいいんじゃない」という言葉を聞いています。20年ほど前から2回死のうとし、一回は無意識に行動に出ていました。1回死ぬ寸前まで行きました。これが病気の発作でしたが、覚悟した割に簡単に直ってしまいました(医者に言わせると奇跡だというのですが)
その経験から、人が死ぬと身近な人ほど自分を責める事がわかりました。近親者でも、遠い存在の人は可哀想とは思っても自分を責める事はしません。
だから、私は自分を身近に感じている人を罪の意識で悩まないようにという一点で生きています。
死とは選ばなくてもやってきます。死の文字が浮かんだ時には、ジャァその前にやっておくことを見つけます。旅行でもいいです。買いたいものでもいいです。
何かのきっかけ、別に目標ではなく、これだけはやっておきたいという事を考えれば、当面は大丈夫です。