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ボランティア精神とは?
数年前、ある地の災害に心を痛め、ボランティアにでかけました。しかし、ボランティア団体にひどく疑問を持ってしまいました。 ある団体の幹部らしき人物はこういいました。「軽い気持ちで手を貸す奴は来ないでほしい」「明日は来ないという人は明日といわず今日から帰ってもらえ」「兵隊(ボランティアを実際にする人)はだまっていろ」などです。また、参加している市民のボランティアの方も、明日は来られないと言うボランティアに対して大変冷たい態度をとるひともいました。 私は災害の早期に駆けつけたので、団体の来る前から本部の内側をみることができたのです。 市民ボランティアの力はとてもすごいものがありました。それが軽い気持ち、自己満足の気持ち、限られた時間だけの参加というだけであっても、とても貴重でしたし実際に汗を流していた人もそういう人達でした。 そこで質問ですが、軽い気持ちで来るボランティアは必要ないのでしょうか。行かない方がいいのでしょうか。ご意見を聞かせてください。
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こんにちは。 私は阪神の震災ボランティアは声がかかったのですが、行かなかった者です。 いろいろ後から考える事はありましたが、最大の理由は、長期行ってる事ができなかったからです。 広域災害の救援の様なボランティア、特に早期では本当に軍隊並の感覚でいく必要があると思います。 しかしだからといって一日だけとか日帰りのボランティアはいらないかというと、そういう人でもできるセクションというのはあります。 詳しい説明や学習などもいらないような部分ですね。 でもそういう部分が確立する為には、ある程度組織だった救援活動が確立してからじゃないと無理です。 早期における救援活動は全ての作業において日帰りでは困るはずです。 つまり行くのが早すぎたのではないかと思います。
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- lilact
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1日だけしか出来なくてもボランティア活動に参加することは良いこと だと思います。困っている人の助けになるのですから。 軽い気持ちでボランティア活動をしたとしても、困っている人が助かっ たりうれしい気持ちになるのならそれも良いことだと思います。 このボランティア団体の幹部や冷たい態度をとった人たちは、自分たち の理念ややり方に合わない人たちを排除しようとしています。そんな団 体にはある種傲慢さが感じられます。もし、自分たちの団体の活動にと って困ることがあれば、お互いに話し合ってより良い道を探していけば よいのですから。 「1日や2日ではだめだ、続けることが大事」という意見の人もいるよ うですが、「1日しか時間が取れなかったけれど、困っている人の役に 立ちたい」という思いで活動した人がいたとしても、それも尊いことだ と思います。
お礼
よいリンクを貼ってもらって感謝しています。なんども読み返してみようと思います。
- phonebee
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No2です。 >1ヶ月ボランティアしても被災者の方は以前の生活を取り戻せないと おもいます。かといって生涯毎日かかわりあうことは不可能です。 1ヶ月のボランティアとは、どのような内容ですか?野戦病院さながらの 目も回る忙しさの中で1ヶ月間過ごすのか、仕事をしながらでも、会社 帰りに毎日数時間何らかのお手伝いをするのか、或いは毎週末通うのか..。 当面の救援活動、例えば救援物資の送付や仕分け、配送、炊き出し、看護 建築物の再建、また資金面や物資の協力等で支える人もいれば、その後の 訪問や介護、精神面でのカウンセリングなどで数年以上同じ人を対象に ボランティアを続ける人もいます。私がボランティアといっても沢山ある と言ったのはこういうことです。どのケースも、その個人が自身で可能 だと判断した範囲内だと思います。 なので、あなたが体験したことをそのまま1ヶ月続けることは仕事を 辞めることとイコールになってしまうでしょう。だから誰もそんなこと しません。自分のできる範囲でやる、これが偽善だと言うのなら、 ボランティアはどう成り立つのでしょう。 その幹部の人の発言ですが、私はこう解釈しています。 今回偶然出会ったのが震災という予測不可能な事態で、そこに求められる のは沢山の人手だったことには間違いはありません。だからボランティア 未経験の多くの人々が立ち上がり、たとえ1日でもできる限り力になろう と頑張りましたよね。けれど、代わる代わる救援活動に携わった人々も そのうち辞めていきますよね。とりあえず状況が回復すれば。 幹部の人はそのような震災時のための単発的に作られた団体ではなく、 何等かの活動をずっと続けている方なのだと思います。だから、こういう 状況のみ人が集まり、またいなくなることを見てきているのだと思い ますよ。だからそのような発言に繋がったのではないでしょうか。 その人自身も、災害時の対処法には慣れていなかったのかも知れません。 でも、日頃から活動をしている人ですから、こんなに人が集まったことを 喜ばないはずがないじゃないですか。 それから、あなた自身は、何度参加しましたか?たった数回の経験で ボランティアの価値を決めつけるのは、私は良い方法だとは思えません。 いろいろ悩んでおられるようですが、大事なのはあなたがおっしゃった 「深く考えることはない、助けたいと思ったら気軽に手を貸せばいい ではないか」これですよ。 あなたがしたいと思ったからしただけのこと。きっかけは誰でもそんなものでしょう。ボランティア活動は、とにかく 何等かの形で続けることが大切です。日頃から活動に興味を持って、 いろんな行事に参加することも、ボランティア精神とは何かを知る答え になると思います。 ボランティアとは何なのか、本当に知りたいと思うのなら、ぜひ、 また動き出して下さい!
お礼
再度、じっくりと読ませてもらいました。 おちついて読み返すと、言葉の取り違いというものはあっても、ギャップというものは無いことに気づきました。 > 自分のできる範囲でやる、これが偽善だと言うのなら、 ボランティアはどう成り立つのでしょう。 私も当初から全くそう思っていました。 私が当時「私は熱心なボランティアの方々から偽善者とおもわれているのか」と思ってしまったことは、いわゆる妄想が入っていたと思います。人にはそれぞれ特技や身体的経済的時間的な格差があり、そのためいるべき場所があり、間違ったところにいてはいけなかったのだと教わりました。 それと、ひとつ反省しています。 熱心なボランティアの方に、日帰りの方へ偏見をもたないでほしいと願うことよりも、 日帰りの方に、熱心なボランティアの方へ偏見を持つのは間違いだと思うことが筋でした。 甘んじて受けて否定されたとおもわず、出来る範囲で続けようと感じることが大事なことでした。 そもそも仕事も助け合いで成り立っていますし、経国済民といわれるように、経済活動も立派な社会貢献でした。なので私の悩みなど被害妄想的なことだと今では反省しています。 それではそろそろ質問を締め切ろうかと思います。 お礼の言葉を重ねるよりボランティアする事が一番のお礼だと思うのでこれで失礼します。 みなさんありがとうございました。
補足
たいへんためになるお話を聞けて大変感謝しています。長文を頂いたことでその思いの尊さにまったく頭が下がるおもいです。 > ボランティアの価値を決めつける その様なことは決して扇動もしておりませんし、おもってもいません。どうかその様なことはいわないで ください。ただ、もっと参加しやすいものに出来たらいいな、それは全く不可能ではないよね、という思いだけで投稿させてもらいました。軽率だったかもしれませんが、どういうアドバイスをもらえるかと、あなたの意見を含め大変ためになりました。 最近、色々と「人の思い」について貴重な体験をしました。これからもがんばりたいとおもいます。 今、時間がないので補足にてお礼を申し上げます。 また、時間があるときにでもしっかりお礼文をいれたいとおもいます。
- phonebee
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「兵隊はだまっていろ」については納得できませんが、それ意外の言葉 なら、当然のことをおっしやっているのだと思います。確かに1日の ボランティア活動でも、した方は満足かも知れません。でも、対象の方は 一向に良くならない状況の中で毎日苦しんでいるのです。ボランティアは 決して自己満足のためにあるのではありません。生きるか死ぬか、明日 をもしれない状況の中で戦っている相手の方を思えば、今日はいい、明日 はダメ、などと悠長に選択できるはずがありませんよね。 今日明日限りの傍観者的感覚ではなく、もっと緊張感をもって捉えて欲しい、恐らくその幹部らしき人にはそういう思いがあるのだと思います。 それにしても、もっと言葉を選ぶべきだと思いますが。 ひとくちにボランティアと言っても沢山あります。 数年、或いは一生携わるものもありますし、短期でいいものもあります。 まずは所属する団体がどういったものかを知る必要がありますね。 行かない方がいいなどと言わず、amanogawaさんができるボランティア にはどんどん参加して下さい。そのうち、「軽い気持ちで...」などの 言葉の意味が分かる時がきます。
補足
> 対象の方は 一向に良くならない状況の中で毎日苦しんでいるのです。ボランティアは決して自己満足のためにあるのではありません。 わからないんです。1ヶ月ボランティアしても被災者の方は以前の生活を取り戻せないとおもいます。かといって生涯毎日かかわりあうことは不可能です。どんなに熱心な方でも、自分は生きていけなければいけません。ここまでいうと極論ですが、だれしも都合というものがある。困っている人は限りなくいるが、助けたいがため仕事をさぼりクビになったら自分をだれが助けてくれるの?という訳の分からない話になってしまいます。 自分も相当の不幸を共有しなければ、ボランティアといえないのでしょうか?自分の出来るだけの善意で、不幸を軽減させてあげることは、ボランティアといえないのでしょうか?ということです。 明日死ぬかもしれない人を放置するのは法律にあるように罪です。ここでいいたいことはそういうことではありません。 私は感じました。短期のボランティアの方に対してよい感情をもたない長期の奉仕者は、「自分は明日もやるのにあの方は家に帰る=あの方は偽善者なのだろう」という心理課程があって、まったく被災者の事を忘れていると。 被災者の方にとっては、少しでも忘れてほしくない、少しでも助けてほしいと考えていると私個人は思っています。短期であっても喜んでもらえると思います。そういう短期なら可能な方は多いので、代わる代わる助けが入るでしょう。しかし、初心者に対し偽善という言葉をちらつかせては永続的な助け合いは生まれないばかりか、善意の教育すらままならないと思います。 私は幹部の内実を垣間見て自分は偽善だったのか?と捕らわれボランティアから離れました。しかし思い出しました。敷居の高いボランティアに、なかなかはじめの一歩を踏み出せなかった自分を。そして深く考えることはない、助けたいと思ったら気軽に手を貸せばいいではないかと。そうして被災地にでかけたのだと。 そういう短期の方は非常に多かった。そして皆、現状に真剣に取り組み、そしてそれぞれ偽善の負い目を受けながら帰った。最初の一歩は軽い気持ち=純粋な気持ちでよいはずでし、出来る範囲でがんばってくれれば手放しに歓迎すべきです。 問題は教育だと思います。まちがった善意の価値観がボランティアを狭くしていると思います。 話はそれますが、私は軽い気持ちでボランティアをしました。そして次々に襲ってくる悲しみも割り切り、タダひたすら仕事をこなしました。すべにて目を向けては精神がもたないと感じたからです。本部に戻れば、被災者のいないところで笑顔も出すようにしました。 白でも黒でもネズミを捕る猫はよいのだ、白と黒に善悪をつけているのは人間の勝手な都合で善には変わりはないと切に思います。 > 行かない方がいいなどと言わず 行かない方がいいと扇動した覚えは全くありません。 短期は必要ないという話を耳し、私のようなものは行っては迷惑なのだろうか?という意味です。
- NonNon5
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私は、ちょっと、日常の生活で会うのとは違った人に会いたいなぁと思って、ボランティアに参加します。もちろん、その活動内容に賛同した上ですが。 でも、そのように、集まった人には、それぞれいろんな思いがあり、いろんな経験をしていて、バラバラにそこに集まっています。ちょっと自分の今までの常識では受け入れられない人もいます。集団行動をとれない人もやってきたりします。 そういう人たちの集まりを動かしていくのは難しいため、「軽い気持ちで手を貸す奴は来ないでほしい」「明日は来ないという人は明日といわず今日から帰ってもらえ」「兵隊はだまっていろ」という流れができてしまったりするのではないでしょうか。 早い話がまとめる側の力量不足なのですが、こういった災害のボランティアで結果を出すことが求められると、参加する人にとってベターな運営は、二の次、三の次になり、そういった状態になりがちなのも事実だと思います。 軽い気持ちで来るボランティアは必要ないとは、思いません。でも、その人たちをまとめて実作業をするには、まとめる側がしっかりしていないと、とても難しいので、受け入れ側の体制ができているかどうかにかかってくると思います。 私はNGOにかかわっているので、いろんなイベントで同日だけのボランティアに参加してもらっていますし、他のイベントで自分もボランティアとして参加したりしますが、受け入れ側もノウハウができてきているのか、説明も分担も連絡もしっかりされて、ボランティアが動きやすくなっていますし、「黙っていろ」と言われることはありません。だって、次への改善点は出た方がいいじゃありませんか。
お礼
回答ありがとうございます。とかく日本のボランティアというのは敷居が高い印象があります。もっと、参加しやすくなるように、啓蒙活動なり体制があるといいなと思い質問させてもらいました。ありがとうございました。
補足
> 最大の理由は、長期行ってる事ができなかったからです。 これが一番大きい理由ですよね。私たちに限らずだれしもそう考えて躊躇するとおもいます。私も阪神淡路大震災にその理由でいきませんでした。しかし、後になって考えると、あの時私は結局何も助けてあげられなかったと反省しました。土日だけでもいって少しでも助けることは出来たはずなのに、長期こそ善意という壁に捕らわれてしまったのです。 > 早期における救援活動は全ての作業において日帰りでは困るはずです。 つまり行くのが早すぎたのではないかと思います。 行くタイミングをはかるというのは歯がゆい感じがしますが、現実問題、場合によっては必要かもしれませんね。つまり、一時にどっと日帰りの方が来ては、本部が対応に追われパニックになったりすることも有り得るし、自分の特技を活かせる時期というのもあると思います。つまり、私の行った被災地は主婦さんが沢山きてくれて、たいしたもんだと感動したのですが、その時点で必要だったのは男の腕力でした。かわいそうなことに、本部で足止めをさせられる時期がありました。しかし、団体が切り上げた後威力をはっきしたのは、まさに主婦さんのちょっとした善意の連続であったようです。被災者の方は、団体は一気にひきあげるので寂しかったが、近所のあたたかみが身にしみたと言っておられました。 その時の状況は、早期といえど、被災後も死者やけが人が出る状況ではありませんでしたし、死が直面する状況では日帰りはまずあり得ないですね。 過酷な状況下での話では、やっぱりそれ相当の人としての対応というのは、もちろん期待して当然だし、答えるのも当然だと思います。 しかし、その様な特異な状況は別として、私の言う疑問とは日本のボランティア風土への疑問です。ボランティア精神とは?です。システム、組織、対応の問題ではなく考え方の問題でした。 日帰りボランティアの受け入れの大変さという点は確かにありました。日帰りの方は「本部へ行かなくては」という頭があって、対処しきれない役場、本部への非難がありました。 だから私はどこへ行けばよいのかわからない人たちに、「仕事は自分で歩いて見つけて下さい。危険なこ事はしないでください」といって回りました。本部に頼る考えも変に植え付けられた感がありますね。