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(プロ)オケの首席奏者というのはなぜいるのか?
前から思っていたのですが、特に管楽器でしょうか、弦もマスター以外にいるのでしょうか、「主席」というものがなぜ存在するのでしょうか。その「主席」という人は、演奏するのはいわゆる1stのパートということらしいです。そして、恒常的にそればかり演奏しています。 ソロ奏者ではない立場で、主席だ次席だということに何か意味があるのでしょうか? オケという技術芸術集団の中で「優劣」のようなものでランク付ける意味などあるのでしょうか。私は非常に疑問です。むしろ、いつも1stの演奏ばかりしていたら、演奏柔軟性が失われていくのではないでしょうか?つまらない例を挙げるとすれば、ここで質問とか回答一本やりだと、お互いのことがわからなくなっているようなものです。1st2nd3rd満遍なくやるのがいいのではないでしょうか。なにせ、プロの技術集団じゃないですか。技術はお互いすばらしいはず、誰でも4番バッターをはれるのでしょうし、またそうでなくても、2番バッターでも、ソロ演奏でないのですから、4番を張ったってなんらおかしいことなんてないだろうと思われます。
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「ソロ奏者ではない立場で、主席だ次席だということに何か意味があるのでしょうか?」 意味があるから何十年もそう言うポジションを作ってやってきたのです。 「いつも1stの演奏ばかりしていたら、演奏柔軟性が失われていくのではないでしょうか?」 それくらいで演奏柔軟性が失われるようではプロじゃないと思います。 「プロの技術集団じゃないですか。技術はお互いすばらしいはず」 だかろこそその各人の技術をパートとしてまとめるために「首席奏者」が、むしろ必要なのです。
「ご説明よくわかるのですが、なお疑問がありますね。」と仰る質問者様の考え方に疑問がありますね。 前回の回答文で私は、「安定した楽団のサウンドを永遠に提供するために首席がいる」と申し上げました。 しかし仰るように「指揮者によってずいぶん要求するものは違って」きます。 例えばN響でも、ウォルフガング・サバリッシュさんが振るのとシャルル・デュトワさんが振るのでは、素人の耳には違いが分からなくても、聴きなれた人には違いがわかるそうです。 「N響アワー」という番組があって、たまにメンバーがマエストロの思い出話をしますが、彼らも「指揮者によって同じ曲でも解釈が違う」という話をよくします。しかしそれでも、N響のサウンドには変わらないのです。それはなぜか? マエストロは自分の解釈をオケの全メンバーに伝えながらも、それぞれのオケの個性を尊重してくれているからでしょう。 このように仰るように「指揮者によって要求は違う」のは事実ですが、マエストロたちは自分の解釈を押し付けず、オケのメンバーの音楽性をも尊重しているのです。少なくとも私はそう思います。 そういうマエストロと楽団メンバーのパイプライン役をするのが「首席」でもあります。従ってマエストロと「首席奏者」の信頼関係は、他の一般メンバーとの関係以上のものなのではないでしょうか。その関係を築く必要があるのに、いまの総理大臣の様に短期間でコロコロ変わったらどうなりますか? 楽団の演奏がどっちつかずのふらふらした不安定の音楽になると思いませんか? だから、首席を交代制とか何とかでコロコロ変えるわけにはいかないのです。もちろんこれは素人意見ですけど。 実際はdipearlさんがおっしゃったように、「首席奏者」はオーディションで決められるからなんですけど。
お礼
指揮者とオケの共同作業という原則でしょうかね。いくら料理人がコンセプトを持っていても、その素材やら調理器具で持ってある程度は制限されるでしょう。その一種の伝統というものを人間国法的に実現しているのが、首席奏者というものなのかもしれませんね。
- dipearl
- ベストアンサー率38% (226/582)
#1です。 >スケジュールで、次は誰が主席、その次は誰というような、交代制にすればどうなのでしょうね。年の功でうまくなっていくとも思えません。精神的なものが大きいのでしょうか(年下に指示されたくねぇとか) 首席は年の功で決まるのではありません。オーディションで決まります。たとえば「トランペットパート」で入団試験を受けるのではなく、「1stトランペット」で受けるわけです。ですから20代の首席というのもあり得ます。 #2さんや#3さんが色々書いていて正論ですが、現実問題としては結局のところ一番上手い人が首席となるのが普通でしょう。なぜなら給料が違うからです。同様に2nd、3rdも給料が違うので、まんべんなく回すなどということはあり得ません。3rdの人が2ndや1stを演奏するには、オーディションを受ける必要があります。 >ソロ奏者ではない立場で、主席だ次席だということに何か意味があるのでしょうか? 首席は、曲にソロが出てくればソロを担当します。 野球に例えるなら、首席は古田監督みたいなもの、指揮者はナベツネさんに相当するのではないでしょうか。
お礼
ファーストトランペットで受けるとは知りませんでした!年功序列的に徐々に実力を認められて上がっていくのかと。それほど、強固にカテゴライズしたいものなのですね。しかし、オケマンというのはそんなにアンサンブルよりそりスティックな要素を考えるというものなんですね。これは意外なことでした。もしかすると、現代の供給過剰がその慣習を煽ってはいないでしょうか?
はじめまして。kohouanと申します。 わたくしも♯2さまのご意見に賛同します。 質問者様の仰るようにプロのオーケストラは、各々が立派な技術者の集まりです。しかし、だからこそむしろ首席がいるのではありませんか? 首席はただ単に演奏技術の優劣で決めてはいないと思います。 私はオケは経験したことがありませんが、ブラバンで指揮者をやっていたことはあります。 技術レベルの低い楽団でしたら、いわゆる吹奏楽部のパートリーダーのように、一番上手な人が努めればいいでしょう。 しかし、質問者様が問題にしているプロの場合、演奏者個人はそれぞれ、演奏に対する自分のこだわりや価値観や信念やプライドなど、諸々の個性を持っています。 従って、オーケストラとして楽団を組んだ場合に、その各人の価値観は当然ぶつかりますよね?それをまとめるのが首席奏者なのではありませんか? プロの楽団に首席がいるのと学校の部活のパートリーダー選びとは、全く次元が違うのです。 従って、首席を務めるのに、楽器のうまい下手はまったく関係ないのであって、首席を務めるのに向いているか否以下の方が大切だと思います。 ♯2番さんはサッカーに例えましたが、私は政治家に例えましょう。 総理大臣がコロコロ変わったら困るでしょう?閣僚がコロコロ変わったら国民はついていけないでしょう? 首席がコロコロ変わるのは閣僚の大臣がコロコロ変わるのと同じです。そんなことをしたら政治が不安定になるでしょう? オケも同じです。それぞれに違った音楽上の価値観を持った人たちがかわるがわる首席を変わったら、首席でない人たちはどう言う音楽を作っていけばいいか混乱するでしょう?第一、長い間のマエストロたちが培って作ってきた楽団全体のサウンドが変わってしまうでしょう? そうなると、当人たちはもとより、その楽団のサウンドを愛してきたファンが困るから、そして、安定した楽団のサウンドを永遠に提供するために首席がいるのです。 質問者様はプロのオーケストラにおける「首席」というポストを、甘く考えておられるようですね。 繰り返しますが、「それぞれがソロを担当できるくらいのプロ」だからこそ、「各人の違った価値観をまとめる」ために「首席奏者」がいるのだということを覚えておいてください。 失礼いたしました。
お礼
技術がお互い切迫し、そのままだとライバル関係にしてしまうというしあうものがあるという現状を、うまく丸め込み一方向性を持たせるということで、恒常的にその役目を果たす一種の「威厳」がその役割なのかもしれませんね。結局は現実に適応させるためにある、人間社会のおきてのようなものかもしれませんです。
補足
お礼は後ほどいたします。 ご説明よくわかるのですが、なお疑問がありますね。 指揮者によってずいぶん要求するものは違っていると思うのです。なので、その首席奏者の観点がそうしゃしゃり出るものなのか?というかんじですね。指揮者感覚を実現するのが主だったら、「主席」不在でローテーションであるパートを演奏その翌月は違うパートをでよくないでしょうかね。指揮者よりもオケ味を優先するというのなら話はわかるのですが。
- Kules
- ベストアンサー率47% (292/619)
他の人の回答への補足に対するコメントです。 >スケジュールで、次は誰が主席、その次は誰というような、交代制にすればどうなのでしょうね。 私も楽器を10年ほどやっていました。それほどうまくもなかったので実力的に主席になれるわけはないですが、もし自分が天才的にうまかったとしても主席になりたいとは思いません。なぜなら私は「他の人につけてサポートする」形で演奏するのが好きだからです。周りを引っ張って音楽を創っていくのは性に合わないからです(当方指揮者も経験していますが、それと演奏者としてのスタンスは別です)。 演奏者にも「自分で引っ張っていきたい人」と「他の人につけたい人」といると思うのです。じゃあ「自分で引っ張っていきたい人」が交代で主席やればいいじゃんってことになりそうですが、まあそこは実力も兼ね備わってないといけないということもあると思います。 また、主席がころころ変わるというのはサッカーでいうと監督・コーチ・トレーナー・スカウトマン・キャプテンが全部毎年変わるようなものだと思います(サッカーでの監督はオケでいうところの指揮者じゃないかというツッコミはなしでお願いします)。サッカーの経験はないのでわからないのですが、毎年毎年フォーメーション・戦術・新人集めの方向性が変わったら結構混乱するのではないかなあと思います。 つまり主席はあんまり変わらないで(実力が飛びぬけているわけではないけど)同じようにみんなを引っ張っていって、同じように解釈をしていった方が安定感があるのではないかな、と。 長文失礼しました。参考になれば幸いです。
お礼
確かに、恒常的に、それに向いた人が役割をずっとやらすのがいいのかもしれませんね。そこのところは、人事のrテクニックというか、経営論的にもそうなるのかもしれませんね。
補足
お礼は後ほどいたします。 どうも、向き不向きでやるやらないというのは、攪拌作用をとめてしまうというか、奏者の可能性を奪ってしまうのではないでしょうか?また、指揮者指導の原則があるのだった、基本的には楽団員はロボットであり、指導者の癖云々という問題はは要らない気がします。 要は、馴れ合いとか慣習化したほうが楽だからという感じじゃないでしょうか
- dipearl
- ベストアンサー率38% (226/582)
首席がいないとパートがまとまりません。全員が「我こそは」と弾いてしまうと、「競争曲」になってしまいます。 指揮者に指示をもらったことを解釈し、どのようにすれば指揮者の指示のように弾けるかを考え、パートに伝えるのが首席です。たとえばボウイングひとつにしても、それぞれプレーヤーが解釈すると、ばらばらになってしまいます。パートをまとめ、各プレーヤーの能力を十分にパートに反映させるのが首席の仕事です。単に「一番前で弾いて目立つため」ではありません。
お礼
やはり、中心人物というのは、恒常的にその役割を果たしているというのが大事なのかもしれませんね。そこらへんは、会社の役職と同じようなものでしょうかね。
補足
御例は後ほどいたします。 スケジュールで、次は誰が主席、その次は誰というような、交代制にすればどうなのでしょうね。年の功でうまくなっていくとも思えません。精神的なものが大きいのでしょうか(年下に指示されたくねぇとか)
お礼
やはり、優れた人ばかり集まるというのは、威厳を必要とするのかもしれませんですね。