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小学生の茶髪は個性でしょうか?

ちょっとお聞きしたいと思います。 茶髪の小学生がいたとします。 きっと親御さんは、“子供の個性を尊重して何が悪い?”と言うでしょう。 個性の表現方法にはいろいろあると思います。 女子中学生や女子高校生のネイルアートも、もしかしたら個性を演出したいがためのオシャレかも知れません。 学校での個性表現と対極にあると思うのが「規律」「規範」です。 今の時代、“規律や規範が古めかしいのか”、それとも“行き過ぎた個性表現はやはりよくないのか”、皆さんはどのようにお考えですか? そもそも、“行き過ぎた”と解釈する基準も曖昧なような気もしますが、どうでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • BelieveIn
  • ベストアンサー率48% (20/41)
回答No.5

個性ではないと思います。 なので、”行き過ぎた個性表現”というよりは、”間違った自己顕示欲”ですね。 ”規律、規範”が古めかしいのではありません。 と、私は思います。 まぁでも、そもそもどこからが”行き過ぎた”と判断するかは、十人十色ですので、曖昧で当然だと思いますよ。

localtombi
質問者

お礼

回答を頂き、ありがとうございます。 >間違った自己顕示欲 そうですね、それが親の都合でやられたら、子供がかわいそうな気がします。きっと子供からお願いしたことではないと思いますからね。 ありがとうございました。

その他の回答 (20)

noname#82794
noname#82794
回答No.21

まずはあげ足を取るわけではないですが、周囲が何も言っていないのに 親が“子供の個性を尊重して何が悪い?”なんて言うはずもないでしょう。 また百歩譲って、 >茶髪の小学生がいたとします。 >それを見た人が「小学生が茶髪にすべきでない」といったことを言えば >きっと親御さんは、“子供の個性を尊重して何が悪い?”と言うでしょう。 と補足をしてあげましょう。 それにしても前提があまりに主観的すぎるでしょう。 「きっと・・・個性を尊重して・・・言うでしょう」 とのたまっていますが、この先入観に基づいた「個性」という言葉が 一人歩きをしていて、それがこの質問のメインテーマになってしまっている。 出直しですね。

localtombi
質問者

お礼

挙げた質問は、周りで起きたことを示したことで、架空のことではありません。やりとりもほぼ事実です。 それにしても、「のたまう」とは随分と失礼な言い回しですね。 そういう言葉の言い方からして常識のない回答者には、お礼を差し上げる資格はないものと理解します。 どうか一から出直して下さいませ。

  • umigame2
  • ベストアンサー率40% (886/2202)
回答No.20

良識ある大人は、「人間は外見ではなく中身が大事である」ということを子供に教えてあげないといけません。 茶髪にすれば、なるほど目立ちますし、今風でカッコイイのかもしれませんが、中身が伴わなければ単に滑稽なだけです。 しかも、子供が果たしてそれを望んでいるかというと、決してそうではないと思います。 茶髪がカッコイイと思うこと自体、おこちゃま的感覚で、大人になりきっていない証拠です。 親がタトゥーを見せびらかしながら参観に来る時代ですから、茶髪の子供が増えて当然なのかもしれません。 アホな親に育てられて、アホな子に育つ・・・本当に嘆かわしいことです。 個性というのは、基本の上に成り立っているものであって、しかも内面からにじみ出てくるものです。 いくら外見を飾ってみても、それは個性とは言いません。「我流」というやつです。

localtombi
質問者

お礼

「子供は親の背中を見て育つ」と言いますが、それを表しているかも知れませんね。 回答を頂き、ありがとうございました。

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (766/5721)
回答No.19

それは、その子供や親御さんの思い通りでいいと思います。 私は、子供の髪の毛の色に手を加えませんし、 髪の毛の色に手を加えている人にはあまり惚れさされません。

localtombi
質問者

お礼

自由奔放にやらせていいとは思いますが、それが周りに影響を与える(特に悪く)となったら、ちょっと考えものですね。 回答を頂き、ありがとうございました。

  • hyakkinman
  • ベストアンサー率16% (738/4426)
回答No.18

その人の「あるがまま」を「個性」というのではないのか? 「染めたり」「化粧したり」ということを、「個性とは言わないのではないか」? 「あるがまま」よりも「変えたほうが、かっこいい」と考えてしまう「人間たち」が、愚かなのではないか? 学校での「個性表現」は、「不要」ではないのか? 疑問のまま・・・・はっきりとした「私見」が出ません。 わからないけど・・・、 「学校での見た目の個性表現は、要らない」というのが、とりあえずの意見です。

localtombi
質問者

お礼

回答を頂き、ありがとうございます。 >「変えたほうが、かっこいい」と考えてしまう「人間たち」 それを是認する理由として、個性なり人格なりが出てくるのでしょうか。 画一的なものを求める部分と、アイデンティティを伸ばしたい部分とのせめぎあいですね。 ありがとうございました。

  • pick52
  • ベストアンサー率35% (166/466)
回答No.17

ぼくは、それが染めているならあまりいいとは思えませんけど中には地毛である 場合もあるかもしれませんよ。

localtombi
質問者

お礼

地毛とかなら、まったく問題ないですね。 意図的に染めているのが明らかな子供がいたとしたら、というケースですね。 回答を頂き、ありがとうございました。

noname#69009
noname#69009
回答No.16

ちょっと失礼しますよ~^^ 簡単にしますね ある方の言葉じゃあないんですがね「個性」と「人格」っていうのがあるんですよ。これは心理学を学んだ者たちならばみな知ってる、常識の知識ですよ。 でわでわ~

localtombi
質問者

お礼

もともと、それほど難しい質問をするつもりではありませんでしたが、ここにきて「人格」「個性」「性格」「表現」などの区別をしっかりしておかないと、大変なことになりそうですね。 難しい。 回答を頂き、ありがとうございました。

noname#118909
noname#118909
回答No.15

>“行き過ぎた”と解釈する基準も曖昧 小学校はわからないけど、 高校ならたしか「学校の名誉を傷つけるような行為はしません、もしした場合は退学します」というような、 誓約書を入学前に書かされたと思いますよ そこには、お決まりですが「その他、学校側が(不名誉と)判断した場合」というのも含まれますから、 原則的に学校が基準、というのは入学前からハッキリとわかっている事だとおもいます いわば、それ(ルールのあり方)が学校の「個性」ですから 学校さんの個性を尊重せずして、生徒さんの個性を尊重しろというのはおかしいですよね

localtombi
質問者

お礼

学校の個性に合った人間を入れるのか、それとも個性ある個々の人間の集合体が学校の個性になるのか、微妙ですね。 後者の方が面白い人間が集まる反面、コントロールが難しいかも知れませんね。 回答を頂き、ありがとうございました。

回答No.14

茶髪の小学生(たまに見かける幼児)の名前は多分「個性的」な名前なんだろうなあ・・・と思ってみています。 個性を履き違えているとおもいますが・・・。

localtombi
質問者

お礼

回答を頂き、ありがとうございます。 親がそのように育てたいという意向が、そのまま現れるのだと思います。 名前もしかり、外見もしかりですね。 ありがとうございました。

  • furupai
  • ベストアンサー率20% (103/494)
回答No.13

個性ではないですね。 以前に聞いたエピソードですが、ある大学で帽子を被ったまま講義を受けていた生徒がいたそうです。 教師「帽子をとりなさい」 生徒「これはぼくの個性です!」 教師「その帽子はいくらしたのか?」 生徒「三千円です」 教師「キミの個性とやらは三千円で買えるのか?」 生徒「・・・・」 茶髪もこれと同じです。 子供の茶髪が良くないのは、黒か茶色かの問題ではなく、親や社会の手厚い保護下にある半人前で修行中の身でありながら、そんなところに色気や艶を出している分不相応な行為そのものが咎められるべきです。 まあ、小学生の場合は親がさせているのでしょうが。 一部の学校で行われている、生まれながらに茶色や栗色の頭髪を黒く染めさせるような指導は、本末転倒であり盲いているといえましょう。

localtombi
質問者

お礼

面白い例えですね。 >親や社会の手厚い保護下にある半人前で修行中の身でありながら ほとんどの場合、その行為を親がさせていると思いますから、子供の行為と言うよりも親の行為に問題がありそうですね。 回答を頂き、ありがとうございました。

  • Vwiyoonn
  • ベストアンサー率35% (162/455)
回答No.12

 茶髪は個性ではありません。自己表現です。  で、子供に表現する自己はあるか? といえばありません。  別段子供を人として低く見ている訳じゃなく、ヒトの幼い個体を近代社会の成員たる個人とするために教育を受けさせるってのが義務教育なんですから、十分に教育を受けていない子供は社会の成員としての要件を満たしていないンです。で、その個体に自我があったとしても社会の成員としての個人(≒自己)ではないんです。ですから、子供が求めているから好きな格好をさせる、というのは糞尿垂れ流しで往来をほっつき歩かせとくのとさしたる差はないんですね。  つまり、近代の公教育そのものが反・自己的で没・個性的ってことが大前提としてあるんです。で、教育によって規格化された社会の成員となってもなお、はみでちゃったりひっこんだりしてるトコが個性なんです。  ですから、義務教育の場で個性を主張させるとか自己表現を是とするってことは、反社会分子を社会は許容しろっていってるのとおんなじことなんです。  もちろん、社会の成員となってからなら個性の主張も自己表現も許される──というか、その資格を得るために教育を受けるんですけどね──ってのが近代市民社会の仕組みなんですけどね。

localtombi
質問者

お礼

>義務教育の場で個性を主張させるとか自己表現を是とするってことは、反社会分子を社会は許容しろっていってるのとおんなじことなんです 義務教育を終えた子供が、みな「金太郎飴」でも困りますね。 かといって過度の自己表現をしてもらっても、集団生活としてなじまない。 その兼ね合いが難しいと思います。 回答を頂き、ありがとうございました。

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