• ベストアンサー

バカな男の子→バカな女秘書やらの流れとその転換ポイント

最近はどうなのか分かりませんが、昔の教育番組で男の子と女の子のキャラクターが登場する場合、大抵(というかほとんどか?)男の子がばかで女の子が賢いという役回りです。ところかこれが大人になると逆転していて、バカな女の子(秘書とかアシスタントとか)と賢い専門的な男という組み合わせが多いようです(逆があったら教えてください) これは、理想的な性役割みたいのものを知らず知らず国民に植え付けようという魂胆か、あるいは国民が潜在意識的にそれを願っているのか知りませんが、もはや、無批判的に植えつけられてしまっているところまで来ている気がします。 これについてどう考えたらいいのでしょうか? また、この間に0ポイントというか、男と女のバカさがイコールになる時点があると思うのですが、それは何歳ぐらいの役回りなんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#96295
noname#96295
回答No.4

なかなか面白いご質問と思います。 物語設定におけるジェンダーですね。 視聴者・読者の年齢層からみて、共感を得る組み合わせというのがそうなんでしょう。 教育・教養番組のおっしゃるような組み合わせは、現実の反映でもあり、文学や映画やマンガといった物語の踏襲でもあり、 受け入れられやすい形であろうと思います。 しかし、NHKの午後のゲストトーク番組でしたか、優秀な中堅女性アナウンサーと新米男性アナウンサーが組んで、インタビューしたりもしますね。 学校世代では女子生徒会長などが完全無欠(に見える)という現実もあるでしょうし、 社会人では博士と助手の構図などにややエロチックな邪推でも誘おうというのか、 男女の組み合わせが妙に生臭い(ように見える)という妄想があるかもしれません。 かっこいい女性研究者とかわいい男性助手といったからめ手にすれば、視聴者が心安らかでないほど生臭くなる可能性も、なきにしもあらずです。 この生臭回避がおこなわれるためには、専門性の高い役を老婦人にしたり、ギャグ、ナンセンスにたよったりと。 賢い女性と馬鹿な男の組み合わせは、作家の筒井康隆氏が好みました。 相当数書いておられると思います。教育番組の台本はお書きになってなかったでしょうかね。 SFには案外、多い図式かもしれません。 これはSF作家に特有の幼児性とねじ曲がった性格が、マザコン、シスコン、マゾヒズムにあらわれがちであるとも取れます。 まあ魂胆は植え付けるほうも植えつけられるほうも、おっしゃるとおりのことであろうと思います。 そこには性的衝動の無意識の圧力がありそうです。 バカな男と組む賢い女性に視聴者・読者が求めるものは母性ですが、 バカな女と組む賢い男性に求められるものは、けっして父性ではありませんね。雄性、優位性、リーダーシップです。 これは子供向けであっても如実です。 手塚治虫の「三つ目がとおる」でしたか、優劣の逆転が、毎度同じ人物たちの上におこりますね。 男の子の願望と女の子の願望がよく取り入れられた作品でしょう。 好きな女の子に頭があがらない、幼児性を受け入れてもらいたい、という関係から男の子が抜けるには、 何か、プラスアルファの必要があります。 また、賢い女の子が、弱く愚かになることができる機会を、男の子も女の子も望んでいるのでしょう。 大人になると、流動的になり、つまり、女性の尻に敷かれたい、幼児でありたい願望と、 プラスアルファを使って優位に立ちたい願望とが、男性の中に同居しますね。 子供の場合は、現に女児の知能が男児より高いですから図式は簡単ですが、 大人の心情は複雑のようです。視聴者・読者の取り込みも容易ではないでしょう。 賢い女の子を従えた賢く専門的な男性でありたいと願う人もいますしね。 そう言いながら、バカのふりができて出過ぎない女の子のあざとい賢さが結局好きだったりして、面倒なものです。 実社会では、女性上司から見て、男性社員が「使える一人前」となるのは、30歳を過ぎた頃、と言われています。 この年齢から、優秀な女性社員よりも出世しはじめるのです。

garcon2000
質問者

お礼

いろいろなものがかみ合って、しかもマスコミ的な文脈操作など受けているのでどうしてももんぎり型というものが生じるのでしょうね。それが社会とのフィードバックで持って何かパターン化されていく。あまり好きな傾向ではないですが、マスコミが力を持ってしまった現代ではしょうがないのでしょう。 いろいろな欲望やらやっかみやら羨望やらいろいろなものが、バカな男の子やバカな秘書を作っているようですね。

その他の回答 (3)

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.3

子供の能力差は"成長の早さ"に帰結するという説を読んだことがあります。 つまるところ、大人になってしまえば能力は皆同じ。 だとするならば、早く大人になる能力(殆どが生来の身体的能力である)を 有する子供こそが(子供の中では)優秀なのである。 言葉遊びですが、五つ神童、十で天才、二十歳過ぎればただの人 なんて昔からいわれてますよね。 さて、今回の質問にこれを当てはめてみます。公表されている統計を 見る限り、幼少期は女子の方が男子より「成長が早い」つまりは 「優秀」であることは間違いなさそうです。 ところが10~12才を過ぎたあたりから、女子の成長速度は低下し 緩やかな曲線を描くようになります。一方男子はそのままの速度で 20歳まで伸び続けます。 ターニングポイントは10~12歳。つまり男が男に、女が女になる 「第二次性徴」の開始が原因であると思われます。 女性の成長速度の減少・あるいは停止については 女性ホルモンの増加による初潮の発生 、つまり子供を生むために 体の作りが別の方向へと変化するためでしょう。 その時点で、いわゆる優秀さ(成長の早さ)は失われていくのではないでしょうか。 ジェンダーフリーという言葉がありますが 社会の精神性に責任を転嫁するより現実に肉体的な差異発生のデータが 存在するのですから、そちらに目を向けた方が有意でしょう。 男と女は、体の特徴からして同じ個体じゃないんです。 何も女性を貶めているわけではありません。 女性には女性に向いている仕事があると思います。 それぞれの特徴にに生物的な理由と利点があるわけですから。

garcon2000
質問者

お礼

「肉体性」というものは、今回は精神的発展の問題とも捉えていたため、私は実はちょっと軽視していたところがあるのですが、実は清新って言っても肉体の一部(脳)とも考えられるわけで、もっともな要因だと思います。下賎な話ですけど、たしかに、生殖に必要なもの(子作りの種)を排出したりすると一時的に精神的性欲も衰えますからね。 そういうわけで、12さいころの転機、これはおおきそうですね。女は体がそうなるだけではなく、それによって、精神も女になり、もちろん男は男になり続ける。その延長で、お間瀬で賢い女の子に粗忽物の男の子→バカな女秘書に切れる上司とかでしょうかね。 ご回答の内容じわっと体に浸透する気がします。

回答No.2

 学研の科学に連載されてる「まんがサイエンス」だと、メインのボケ役は女の子ですね。

garcon2000
質問者

お礼

ほう!そうなんですか。面白そうですね。それは貴重な情報ありがとうございます。なにか「科学」というのが味噌かもしれないですね。洗脳的にに男子児童を奮発させようとかいうマインドコントロールかも。

  • gerappa
  • ベストアンサー率50% (85/170)
回答No.1

結論から言えば、こうした演出が行われるのは、作者や演出家に男性が多いからだと思われます。 確かに子供の頃の場面では、女子が利口に描かれることが多いです。 それは男性にとって、この頃の女子(つまり、大人の男性が、自分の幼少期の思いで=一種のノスタルジアによって演出する想像上の女性)は、すべからく『優しいお姉さん=憧れ』という感情を持っていることです。 ですのでその為には、演出家が自分を、そのストーリー上の男子に置き換えた場合、女子は少し年上か、同年代なら頭の良い、少し大人びた女性(女の子ではない)をイメージすることになると思います。 当然これは、現実のあるべき姿=児童心理学に基づいてはいません(仮に、これが現実の子供の男の子だったら、憧れは別にして「あの○○子。生意気だー!」と腹を立てることでしょう)。 これが大人の男女の演出になると、今度は逆転するのは、結局は男性の心の中には、『男尊女卑』の思考があるからです。 いくら生活力の無い男性=夫(妻の方が生活力がある)でも、女性=妻には負けたくないという強固なプライド(これは社会的に養われた部分もありますが、本能的なものがより強いと思います)がある為、女性に「甲斐性無し!」と言われるのが、最も傷つくのです。 まあ、いくつになっても男性は子供なのですね。 ですので、男性=演出家や作家のこうしたプライドが、劇中で演出される女性を、実は男性よりも頭が良いという設定でも、どこか間の抜けている、いま一つピントの合わない、そしてか弱く頼り甲斐の無い、一種可愛らしい女性を演出させることになってしまうのだと思われます。 しかもそうした方が、男性受けするし、或いは多くの女性にも受け入れられ易い(劇中の女性が、余りに有能過ぎ、または周囲の役職者からの評価が高ければ高い程、視聴している女性から見れば、現実社会では余り評価されていない自分を省みた場合、余りに乖離していると逆にしらけてしまう)ことから、大衆受けし、視聴率も上がることになるので、そうした演出になってしまうのだと私は思います。 勿論例外もあります。 例えば女性の演出家が演出したり、その作品の作者が女性だったりした場合(『篤姫』や『渡る世間は鬼ばかり』等は好例でしょう)は、女性が力強く描かれ、男性はどこか頼りなく=演出は逆転していますよね。 こうした例を見れば、私の考察も「当たらずしも遠からず」ではないかと思っております。

garcon2000
質問者

お礼

大変よく分かります! 演出家が男性という点で大きく左右されていましたか。 子供時代の自分のノスタルジアに忠実に従えば、あまり生意気そうな女の子は興味ないということになってしまいますが、そこのところの歪曲が板についてしまっているようですね。ちょっとこの部分はなぞです。 成人してからの女性周りのこと、甲斐性がどうしてもあるようにしたいという潜在的欲求はもっともなことです。 しかし一方、わたしの個人的志向かもしれませんが、幼少児童期にバカな女の子がそばにいて賢く積極的な男の子がリードする、成人してカリスマ的とは言わないまでも、非常に有能で魅力的かつ積極的な女性に従う男というのが新鮮に思えますね。 というか、こういう男尊女卑の基本的思考が反吐が出るほど嫌いだということかもしれません。よくその言葉の端々から男はえらいんだぞみたいのを発する人が多いようですから。

関連するQ&A