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公教育制度が人間の生涯に及ぼす影響って何ですか?
近代以降における公教育の発展が人間の生涯にどのような影響を及ぼしたか教えて下さい。
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No.1の方のご意見と同じです。国家による人格支配が確実に始まります。 日本で言えば、明治期に作り出された天皇制についての信仰、つまり、天皇は一般民衆より偉いのだと言う信じ込みは主に学校で強制されたものです。 現在は、どちらかと言うと、そう言った直接的な刷り込みはなくなりつつあり、それよりももっと大規模な、間接的な人格コントロールがされていると思います。それは、学歴崇拝のようなものですね。実質的な裏付けがある程度あるので、つまり、高学歴が高収入とか職の安定につながることが多いのも事実なので、ある意味しょうがない面もあるのですが、それでも、必要以上に学歴信仰があるように感じます。 自分が高校生だった昭和の40年代は、まじめに勉強をする生徒を不良グループはある意味尊敬していたのです。男子生徒を「Aさん」のようにさん付けで呼んだりしていたのです。それが、多分、昭和の終わりごろから、勉強ができる生徒は却って私利に走っているように見られ始めました。そう言った中で、一流校とか底辺校と言う言葉が生まれ、勉強の中身とはまったく別に学歴意識が作られ始めたのです。 本来、法律とかIC設計技術のように、知識それ自体として価値を持ち、それ自体が社会の中で評価されて行くはずなのですが、多分、社会が色々な意味で複雑になりすぎたため、評価が社会一般の人にはできなくなってしまい、学歴に頼るようになってしまったのです。または、そう言うことが強制されるようになったと言ったほうが正確かも知れません。 以前、例えば、弁護士は、ある程度学生時代から自分で勉強し、司法試験に受かれば誰でも弁護士になれました。つまり、司法試験に受かりさえすれば、後は司法修習制度があり、その期間は結構な収入が保証され、修習を終えれば自分で開業ができたのです。そこへ一般の方が法律相談へ行き、「あの先生のところへ行くとちゃんと相談に乗ってくれて、きちんと解決するね」のように一般の方が自分で評価ができたわけです。そして、その対価として、その弁護士の方の収入が決まって行った訳です。 ところが、今は、または、最近は事情が異なります。まず、司法大学院制度ができました。大学生時代に勉強して司法試験を受けると言う道はほぼなくなってしまったのです。司法大学院へ通うだけの金銭的な余裕がなくては、司法試験の勉強さえできなくなってしまいました。次に、司法修習制度が変更され、修習時代に給与が出なくなりました。つまり、司法大学院+修習時代は、通しで自活できるだけの経済力が必要なわけです。また、裁判官任官拒否とか裁判官再任拒否と言う慣行があり、裁判官になる人を恣意的に選別しています。 そうなると、弁護士とか裁判官の仲間内で知識の独占が始まります。あなたのケースはこれこれの理由でこうだからこうだ、と言われてしまうと、一般人はそれを信じるしかなくなってしまいます。ところが、信じた内容が本当は全くでたらめだったと言うことが起こっているのです。 こう言ったことは、かなり昔から、例えば医者の世界ではかなり昔から起こっていました。医師のミスがあってもカルテなどを書き直し患者には知らせないと言うことは結構あったのです。でも、医師も自分で故意にミスをしたわけではなく、ある意味、必要悪である面がありました。ミスをしながら自分の技術を高めて行ったと言う面があったわけです。 今はどうでしょうか?エイズ薬害事件では安部英医師の刑事責任は無いと刑事裁判で判決がされました。しかし、彼がエイズ薬害を少なくとも放置したと言うことは、録音テープなどで客観的に証明されていたわけです。ところが、最高裁まで行った裁判で、それらの証拠は意味がないものと判定されました。少なくとも100人以上の血友病患者の命を奪った薬害エイズ事件がきちんと処理されなかったわけです。それでも、一般の方たちはほとんど何も行動を起こしませんでした。一般の方たちは多く無関心で居たわけです。なぜかと言えば、何らマスコミが騒がなかったからに他なりません。 つまり、本来、自分の生活に重要な影響を与えるようなことであっても、自分で判断をしないで、マスコミとか行政とか、または会社の上司などに判断を頼ってしまうと言う状況が非常に広く出来上がっているのです。 そして、そう言う状況を今後ますます強めようと言う方向で世界は動いています。 社会を流動化するのではなく、階層化して、一部の特権階級を作り出そうと言う動きがあるわけです。そして、そう言う階層化が正しいものだ、あたりまえのものだと言う感覚をもたらす装置として学校制度が利用されていると思います。
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- azharu
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公教育と言うと、どうも、個人云々よりも、国家云々のイメージが付きまとってしまいます。そのような視点から思うところを少し・・・ 例えば識字率のアップでしょうか。まあ、日本は江戸時代の寺小屋制度のおかげで、すでに高水準だったようですが。 富国強兵という観点からも、優秀な科学技術者や政治学者などを輩出する上で、公教育の整備は重要だったでしょう。国民の平均的学力が高いほうが、将来有望な人材を輩出しやすいからです。 国民の平均的学力が低いと、仕事にありつけない、ならず者が増えたりして、治安も悪化するでしょうか。そういう意味でも、国民一人一人の、将来の進路の選択肢を広く確保してあげる意味でも、公教育は重要なのかと思います。 筋違いな回答でしたらゴメンナサイ。
- haruhyouby
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価値観でしょうね。価値観(愛知、共働)が良くも悪しくも標準化されたことでしょうか?あとは勿論学業成績による序列でしょうかね?? 丁稚奉公など経済生産生活の中で社会化され、生きて行く為に必要な専門技能を修得してきたそれまでと違い、学校というひとつの枠組みに一度児童全員が収容されることで、統一のカリキュラム・制度の下、同年齢集団の中で社会化を図るようになったということ???かな??
お礼
参考になりました。ありがとうございました。^^