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裁判員制度におけるPTSDの実態とは?
- 裁判員制度が採用されるのは、重大事件の審理でPTSDになる恐れがある。
- 24時間電話相談設置の方針を行うことで、心のケアができるとされるが、PTSDが治まるかは疑問。
- 裁判員制度を通して、PTSDの実態に興味を持ち、質問をする。
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ちなみに、 > このような衝撃が強いのがほとんどと考えられる場面は、なかなか人の記憶から消せないのではないでしょうか? PTSDという概念について誤解があるようですが(というか、世間全般で誤解されてますが)、記憶が残っているのは当たり前であって、それはPTSDでもなんでもありません。残酷な事件の光景を時々思い出すからといって、それもまったく正常な反応であって、「忘れろ」「思い出してはいけない」なんて言ったら、かえって PTSDみたいな症状になりかねません。トラウマ性の障害について精神医療がまずやることは、そのトラウマとして変形され整理されていない記憶を、普通に直視できて生きることの一部となる記憶へと整理するよう手助けすることであって、「忘れさせる」ことではありません。 PTSDの治療というのは、そのトラウマとなる記憶とちゃんと向き合い、不条理な体験を本人が整理してひとつの記憶として受け止められるようにするための作業です。それができないと記憶が蘇る契機があったときに衝動的な自傷行為に走ったり、精神の安定が崩れたり、それこそ身体が動かなくなったりする、そういう「障害」があるから治療が必要となるわけです。治療といって、医療や周囲の人間ができるのは手助けでしかありません。 たとえば親が目の前で殺された子どもはPTSDになる可能性が高いですが、目の前で親が殺されたことを忘れていたらそれはそれで別種のPTSDです。記憶が残ること自体は当たり前のことです。その子どもに対してなされる精神医療とは、その子が落ち着いて両親の死という現実を受け入れ、その記憶を背負って自らの人生を生きていけるようにする手助けです。しばしば犯人への疑似復讐がこれに当たると安易に考えられて「被害者感情への考慮」が安易な「厳罰化」に向かっていますが、これも人間の精神をあまりにもなめた話です。 日本では概念が非常に誤解されていますから、たとえばもうだいぶ前ですが小学校に刃物を持った男が乗り込んで子どもを殺傷した事件で、「PTSDを予防」と称して校舎を建て替えて記憶を隠蔽するといういちばんやっちゃいけないことをやっていたのでした。多くの「心のケア」が問題の本質から逃げてまったく解決につながらない、隠蔽でしかないことをやっているのが、とくに公権力がパフォーマンスでやっている「心のケア」の実態です。 ちなみにその最たるものが、日本国全体が集団的PTSDになってるんじゃないかと思うくらいの、第二次大戦の戦後処理の問題でしょうね。生き残った当事者もPTSDを発症というほどの直接症状はなくとも(実はあって自殺したり、アル中になったり、投げやりになって人生を棒に振った「特攻崩れ」とかも相当にいましたが)、相当なものを背負ってますが、国全体としてはヒステリックに「南京大虐殺はなかった」とか喚いてたりするのは、社会的病理として PTSDに似通ったものだと言ってもいいでしょうね。 たとえば僕自身、爆弾テロ事件で殺されかけたことがあって、まったく運良くたまたま席を外していたために死んでませんが、別段PTSDを発症もしないで済んでいるのは、なぜその爆弾テロが起きたかを、起こした側の動機にある程度の正当性があることも含めて事前に理解できていて、彼らの思いもどこで誤ったのかも整理でき、逆にどうしても理解できない部分は理解できないことだと認識しているからでしょう、恐らくは。別に復讐をしたいとも思いませんし、その動機の問題については部外者ですから実行者への憎しみよりはその状況の全体像を問題だと思えますし。 それに事件自体も「爆弾」という認識し易いものでしたから、たとえば地下鉄サリン事件みたいなことだったら、そもそも目に見えない恐怖ですし、非常に大変でしょう(というか、現にかなり大変です)。 裁判員にPTSDないしそれに類する心理的な問題/障害が残る危険性が高いのは、被告の生死が裁判員の判断に寄っている、自分たちが間違えれば人の命が無駄に奪われるという責任の重さを、素人に押し付けていることです。そのプレッシャーのなかで当然ながらストレスにはなる証拠物件や証言を聞き(それ自体は理知的に認識できるストレスですから、PTSDというほどのことにはまずならんでしょう)、たった三日で考える余裕も十分に与えられずになんとなく流れで「死刑」が決まるだけでも相当な倫理的/精神的重圧ですが、最悪なのは死刑判決でも多数決であること、つまり自分が反対で納得できてなくても自分の責任で他人を殺すことが決まってしまうことです。だいたい市民の司法参加で死刑などが全員一致でなく、時間切れになったら多数決で死刑が出せるというのは、国際的に見ても異例です。 まともに人格が形成されている立派な人間ほどこれは逃げ道のないトラウマになりますし(これで巨大な罪悪感に押しつぶされない人間は、ある意味異常な人格で、むしろ反社会性人格障害が疑われるほどです)、PTSDの発症とはならなくとも素人に負わせることができる責任の範疇を超えています。差し当たり死刑廃止議連(会長・亀井静香)が死刑判決は全員一致のみとして、全員一致が得られなければ終身刑を新設してこの刑にする、という法案を出していますが、法理論だけでなくごく当たり前の倫理的思考と、精神医療や心理学の常識からいって、妥当なことです。 ちゅうか、時間があんなに限られていて時間切れで判決を出させる、という制度で死刑かどうかなんてやるのは、めちゃくちゃでございます。たぶんそうした死刑廃止議連の指摘に対する一種の誤摩化しでやろうとか言ってる「心のケア」でしょう。法務省ってのも困った役所だ。
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- tryouts
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治る人も居れば治らない人も居ると言う程度の問題ではないでしょうか? 裁判員になるのは本来成人した人間であるため、精神的にも十分成熟しきっているはずなのですが、間違った教育制度により自己を形成しきれずに大人になってしまう例が増えています。 精神的骨子の欠如が原因です。 PTSDに果たしてケアがいるかですが、本来であれば特に必要はないはずです。 精神的に成熟していない子供であれば自己形成に歪を生む可能性があるため、十分なケアが必要となりますが、裁判員になるのはあくまでも大人だからです。 過去の戦争を見ても、大多数の人たちはその困難を自力で乗り越えています。 それに比べればあくまでも現場ではなく裁判所と言う枠の中であり、後々に与える影響は微々たるものではないでしょうか。 裁判員ではなく、死刑執行人を市民から選抜するとなると確かにPTSD対策を講じる必要があるかもしれませんが、それでさえ市民としての責務であるのであれば、大多数の人は自力で回復できるものと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 過去の戦争に関してもどうでしょう? 心の奥底はなかなか他人が見れるようなものではありませんからね。 しかし、このポジティブな考えもありえる考えではありますね。 ただ、それは100%ではないと考えられます。 いや、100%を求めること自体、無駄なのかもしれませんが・・・ただむやみに人を縛るやり方がどうなのかと問いかけているだけなのです。
- ikegonomor
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…というよりも、この程度のことでPTSDになるというのも、まあないとは言えませんが…。 > 遺体の解剖写真や 写真でPTSDになるほどのショックを受けるというのは、かなり現実性が低いです。写真つまり表象物であることが無意識に前提になってますから、通常の事物の認識と人格形成ができている人間で問題になることはあまり考えられません。 > 凶器、 これも残酷なことに使われたモノではあっても、実際に見るのは単にそのモノですから。 殺害現場を目撃したらPTSDになる可能性は高いですが、死体を客観的な状態で見てもPTSDというのはかなり考えにくい、人間の恐怖という心理をあまり考えていない理屈です。たとえば自分も巻き込まれた事故の死体はPTSDの原因となりえますが(といって死体だけではなく、事故の体験の一部として、です)、客観的に目撃した死体という漠然として自分に直接危険が及ぶものでない体験ですと、PTSDになる心理的必然性があまり理解できません。まったくないとは言いませんが。 > 犯行場面の再現、被害者、加害者や遺族をはじめとする事件に関わった人の関係者の話によって、 これも自分に直接身の危険が迫る恐怖ではありません。その程度の自己防御機能は、人間にはあります(普通は)。 ですからこの話のすべてが安易なミスリーディングで、もっともケアが必要となる可能性があることから国民の目をそらしている誤摩化しのように思えますし、それはPTSDやそれに類する重大な精神的葛藤に結びつく危険性のはるかに高い、そして裁判員の仕事で逃げようがないことです。 それがなにかと言えば、死刑判決を裁判員が下さなければいけないことです。 しかも多数決制度です。ですから死刑判決にすべきでないという裁判員が少数派なら、その裁判員は巨大なトラウマを抱え込みます。で、ある日その死刑囚の死刑が執行された、と報道があるとします。果たしてそういうことを考えて導入しようとしているのか、当然予想されることをまったく想定すらしていないから、お役人とは恐ろしい。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人間と言うのはなかなか束にして考えづらい生き物です。 だから、写真の中でも、その写真の中に収まっているものに偽りはありませんし、凶器にしても、この凶器の奥に人を殺したなどと言う真実をどう捕らえるかは人によって違います。 つまり、いきなり残酷な現実を直に見せ付けられるのはよろしくないと考えます。 犯行場面の再現などは、報道番組などでもよく放送されるようなことなので、問題はないと思いますが・・・。 つまり、それらに対する納得が行く説明がない限りは、私は一種の押し付けではないかと考えます。 No.2へのお礼でも述べましたが、一種の人権侵害もあるのではとどうしても考えてしまうのです。
- 風車の 弥七(@t87300)
- ベストアンサー率24% (1392/5660)
私もPTSDで通院加療22年目です。 原因は国鉄改革にあります。 詳しい中身は省きますが、国鉄改革の時186名の国鉄職員が自殺しました。 私も大怪我をして死に掛けましたが助かりました。 民営化の現在、国鉄経験者の5人に1人は精神的ケアが早急に必要といわれています。 皆PTSDなんです。 生き地獄でしたよ。その当時は。 私は国鉄改革賛成派の労働組合に所属していましたが、国労や動労の奴等と同じ扱いでした。 衝撃は大きかったです。 睡眠障害にもなり死ぬまで睡眠薬を飲み続けなくてはなりません。 飲まないと苦しい時代を思い出し一晩中起きています。 記憶は簡単に消せません、昨日のように思い返します。 裁判員制度、精神的ケアが必要なら素人に変な事をさせるなと言う気持ちです。 簡単ですが私の体験です。 参考になれば。
お礼
ご回答ありがとうございます。 国鉄の事件はよく分かりません。 しかし、やはり人から行動の自由を奪ったうえで、苦痛を受けかねぬほどのリスクを冒させるのは一種の人権侵害だと考えます。
- mi-dog
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根底には残るでしょう。 加害者は分かりません。 また、人の一生だから、安易には言えません。 助言は言えます。 参考にと言うことで。 でも、裁きは重大だと思います。 真実が見えてれば良いです。 嘘もあります。 立場で嘘を言いますから。 それで裁きは重責です。 普通なら耐えれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、私自身も、一般人にこのような責任を与えるよりも、裁きの重みはまずは考え直して欲しいと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 落ち着いて現実を受け入れる機会を持つことの大切さは、正直あまり分からなかったです。 大切だと気持ちでは分かっていても、その奥にある要素はなかなか見抜けなかったりするものです。 嫌な現実からは誰もが逃げたくなります。逃げてはいけないと言われるだけで、その理由が聞けない。そこから来る事象の象徴が、あの事件の学校であった、校舎の建て替えなのかもしれません。 裁判員制度は、それとは別の意味で、心のケアにおける観点を無視した制度と言えるでしょう。せめてプロと素人の違いにメリハリをつけ続けて欲しい、そこにはせめてプライドを持って欲しかったのが私の思いであります。死刑判決になる可能性のある裁判ならなおさらです。「尊い命」と言いながら、同じ人間でも、「悪者の命は尊くない」と言うことにも、少なからず疑問は残ることでしょう。