※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:わけへだて)
「わけへだて」の子育てと難民問題
このQ&Aのポイント
「わけへだてなく」という言葉は子育てにも使われるが、難民問題では冷たさを感じる
拉致被害者の家族の訴えに心を痛めるが、難民問題の受け入れ態勢も考えるべき
難民の処遇について現状は明らかではなく、世間の目も厳しい
「わけへだてなく」子育てに用いられる育児書・児童書等にこのことばが記載されてあります。よその子もうちの子もという場合もあれば、兄弟間においてというばあいもあることでしょう。教育として子は親・おとなに「わけへだてなく」ということを教えられながら育っていきますが、ふと、悩むんです。
昨今、拉致被害者のご家族の叫びにもにた訴えの場面をTVで目にするたびになんともいいようのない胸の痛みをおぼえます。ご家族のご両親、ご兄弟、ご親戚、ご友人の面々が熱く語れば語るほど、片方でいいようのないせつなさをおぼえるのです。不謹慎な発言だとおしかりをこうむるやもしれませんが、「わけへだて」をかんじてしまうんです。
自国の民(身内)のことであれば、みな熱く報道も関心も熱をまします。
その一方、難民として他の国を離れこの国へきたものに関してはどこか冷たい。
「わけへだてなく」と教えられた訓えがこどもたちのみみにとどくでしょうか?
拉致家族の方々を連れ帰ることに躍起になっていますが、仮に帰国がかなったとしてよかったよかったで終えるものではないと思うんです。別問題で、難民の受け入れ態勢の現状も十分整っているとはいえないわが国。今現在、難民の方々への処遇などあまり光があたっていません。世間の目もきびしい。「わけへだてなく」ということばがあるのならこの機会に難民問題もあわせて考えていけないものでしょうか?
難民の処遇いまはどうなっていますか?
お礼
cse_ri2さん、こんばんは。(*^^*)/ 回答ありがとうございます。 日本民族の特性かぁ。。。 そうなのかなぁ~ 日本民族にかぎらないようにもおもえるんだ ■日本人はよく「和」の精神を大切にしているという話しを 聞くでしょう? ▲ここでいう「和」とは、仲間内の間での和なんです。 当然、仲間でない人たちは「和」の対象外となります。 cse_ri2さん、「和」の精神ていうのはもっと広義なものなんじゃないだろうか?崇高なもの、猜疑には仲間内の...云々と、いう場合もあるだろうが...それは、精神というより習慣・慣わしといった意味合いがおおきいのではないだろうか?習慣に合わないものはみなでつまはじきにする俗にいうところの「村八分」 崇高なものというのは、そこには「こころ」互いにかんじあう「こころ」が存在するんじゃないだろうか?「郷にいれば郷に従う」歩み寄る、訓え訓えを請うものの存在が成立する。しかしながら、「村八分」においては、他に与えることを拒絶する一方通行なこころ。交差する点をも撥ね退ける力が存在するのか、、、 ■拉致被害者やその家族に同情的な世論が強いのは、その人 たちを仲間(同じ日本人として)と意識している人が多い からなんですね。 そして、世界中から集まる難民にどこか冷たいのは、日本人 ではないから仲間と思えないので、「和」の精神が働かず 冷たい対応になってしまうわけです。 ↑ こういう風潮、いろんな場面で感じます。 それゆえ、拉致被害者の方々がかの国に残してこられたご家族・お子様たちの日本への帰国云々の話に胸が痛くなります。お子さんたちは北朝鮮で生まれそしてその地で育ち北朝鮮を母国としてこれまで過ごしてこられた。あちらに、ご友人もおられることでしょうし、もしかしたら、恋人もおられるやもしれません。一晩寝て次の日目が覚めた場所が日本。「ここはどこ?わたしはだれ?」とその戸惑いは日を追うごとに精神を痛めつけるのではないかと。いや、そんなことはない、ホントウ家族がいてホントウの祖国なのだから日を追うごとに日本にきてよかったと思えるようになるとはcse_ri2さんのお話にもあったような日本の中の空気からして思えないんです。彼らにとっては北朝鮮がある意味母国なんです。その母国をよくわからないなかである面だけをとりあげてそれがすべてであるかのように口汚く罵倒・批判されることは彼ら自身のことではないにしても肩身が狭くなるのではないでしょうか? 犯罪を犯したものが家族のうちにいた場合、犯罪を犯したもの以外の家族に向けられる世間の目・風当たりとても冷たいです。幼児殺害犯の宮崎つとむしかり神戸児童殺人犯の少年しかり、果てはA級戦犯と...この人たちのご家族、世間から身を隠すよう息をころして生活をされているのではないでしょうか?北朝鮮におられるお子さんたちが日本に帰国できたよかった、よかったといえる話ではないようにおもうのです。おもい十字架を罪なきこどもに背負わすことになるのでは?何かことあるたびに村八分のような空気が流れる、罪を憎んで人はに憎まじとはいかないものなのでしょうか?北朝鮮に拉致された方々が失った時間を無駄にしないためにも拉致された方々によって流れがいくらかでも人が活きるような流れにむきはしないものでしょうか?何かをかんじ学びとることできるとおもうんですが、何もかんじない何も学ばないのは拉致された方、亡くなった方たちの死がなんだったのかと...村八分なんてクソくらい! 「和」の精神はもっともっと清らかなもの 「しん・そえ・たい」生け花を習ったときこのことばをおそわった それぞれがあることでそれぞれのよさをかもしだしひとつの器のなかで輝く