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動物虐待?ってどこまで?
歳がばれそうですが、小さいころは爆竹使ってかえるを吹っ飛ばしたり。 蛙の肛門からストローで空気を入れてふんずけて破裂させたりしてました。 これって今では立派な犯罪なのでしょうか? http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080403-00000010-khk-l02 当然今の子供たちは爆竹なんて手に入れることは不可能でしょうが、どこまでが犯罪なのかお恥ずかしい話、わからなくなりました。 さすがに猫は手にかけたことはありませんでしたが、トカゲとか蛙とか遊びの道具だった記憶があります。 命を何だと思ってるんだとお叱りを受けそうですが、なんだか反対に今の社会が怖くなりました。 アリを踏み潰すことはあると思います、カメムシがいたらティッシュでくるんで捨てますよね。 その境界線がわからないです。 どこまでが動物虐待ですか?
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虐待といえば虐待でしょう。 子供の頃は無邪気に色々な生き物の命を奪います。 無邪気とは邪気がない。 邪気がない=天使のような心を持っている。と考えている人が多くいますが違います。 邪気がないのに他の生き物の命をもてあそぶほど恐ろしい存在という意味です。 そしてこれは人間の子供に限ったことではありません。 ライオンの子供なども弱った獲物を玩具にするそうです。 そうすることによって逆説的に徐々に命の大切さを覚えるそうです。 だから人間も子供の頃にそういうことをした人のほうが命の重さを知るそうです。 さすがに大人になってもやっていたら危ないですが・・・ またゴキブリやハエ、蚊などの害虫は自分の生活を守るために殺すことも必要でしょう。 この手の害虫はさまざまな疫病の元になるのですから。 アリなども家に入ってくればやはり害になります。 そういうものを殺すのは生存競争です。 意味無く殺すわけでは無いので仕方ないでしょう。 まるっきり生き物の命を奪わないとなったら、 食事も一切食べられません。 草花だって生きているのですから。 そうしたら人間は死んでしまいます。 生き物は他の生き物を犠牲にして生きなければならない。そういう業があるのですから、それを受け入れて生きていくしかないでしょう。 法律的には自然動物は野鳥や絶滅危惧種は保護の対象ですが、一般的にいる両生類やは虫類、昆虫は特に保護の対象にはなっていないので、犯罪とはならないでしょう。 これがだれかのペットの蛙を殺したとかになると適用になるはずです。
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- uoza
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「虐待」認識の基本は、人権問題にあります。 捕虜の扱い、容疑者の扱いにおいて、特にヨーロッパ圏で議論されてきた模様です。 また『動物裁判』(池上俊一・講談社現代新書)には、動物が人間同様裁判にかけられる話が集められております。あの動物は「悪魔」だとかよく迷信にありますが、結構笑うに笑えなくなる恐い話です。その贖罪もあってか反省のリバウンドが起こり、動物の虐待批判=動物愛護ひいては人間愛護=人権へと流れてきた模様です。 日本では生類憐みの令(殺生の問題らしい)がありましたが、それほど強烈に歴史的な影響があるとは感じられません。おそらく、ヨーロッパ文明(もとは残酷)の影響でしょう。ただし、一緒に考えなければならない問題となっています。 まぁこれからは、動物とか人とか分別せずに、努力して「命あるもの」を大事にすればよいのではと思います。そんな風にして野良猫たちをみていると、猫たちも人間社会に似たそれなりの猫社会をもっているとわかり、感心しました。
お礼
回答ありがとうございます。 少なくともこのニュースのように興味半分での殺生はいけないことだと思います。 ただ、人間の法律で「逮捕」となるとちょっと疑問符を投げかけたくなりました。
こんにちは 日頃つくづくと考えさせられる問題ですので、少し述べさせてください。 私の住んでいる地域は非常に野良猫の多い地域で、彼らが必死に生きている様を見るにつけ、我が家の恵まれたペットと比べてしまいます。 さらに、苦しむためだけに生まれて来たこのあわれな生き物を虐待するものがいると聞きます。 子供の頃は罪の意識無く小さな虫をおもちゃにしたり、ありんこを踏んづけたりする事は誰しも経験があるのではないでしょうか? しかし問題は大人になってからのそのような行為だと思います。 大人になって生と死について一度でも考えた事があれば、この地球上の生き物はすべて生きる権利の無いものは無く、与えられた命は全うされるべきと考えるのが普通だと思うのですが。 しかし、現実はそのようなわけにはいかなく、数限りないありんこもゴキブリもクジラのような大きな生き物も命の価値には差があります。 その価値や境界線はすべて人間の都合で決められます。 これは仕方の無い事ですが、せめて自分たちの生のために犠牲になった生き物のことを考えることがより人間的であると思います。 肉食をする欧米のある国では、定期的に肉屋が集まって、感謝と謝罪のお祈りをする習慣があります。 「牛は食べても良いけどクジラはダメという論理は勝手だ」という言い分もありますが、肉食の人々もそれに対する罪の意識や哲学があるという事の証左では無いかと思います。 日々、変わっていくのが人間ですから、昔の習慣も不都合になったり、必要がなくなれば止める事に何のためらいもいらないと思うのですが、利害が絡めばこれもそうはいかないのが現状のようです。 生き物に対する虐待とか、その命を奪う事が悪とされるかどうかの境界線は、それが本当に必要かどうかの一線になるのではないでしょうか? たとえ、ゴキブリであっても道ばたの隅でこっそりと生きているものを殺す必要があるとは思えません。 牛であろうと、クジラであろうと生きるためにぜひとも必要であれば殺さねばなりません。 闘牛も闘鶏も人間の楽しみのためであれば動物虐待になると思います。 以上、最近思っている事を回答とさせていただきました。
お礼
概ね私の考えに近い意見です。 回答ありがとうございました。
動物実験(愛護団体は虐待と呼ぶらしいですが)については、医療系の学科を受験する際、面接があるなら、聞かれるネタとして多いです。 大学側の見解は、例ですが 旭川医科大学 http://www.asahikawa-med.ac.jp/animal/igaku.htm 東京医科大学 http://www.tokyo-med.ac.jp/research/shared_research5.html のようになっています。 日本実験動物学会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jalas/gakkai/policy.html 生命倫理と環境倫理 http://www.law.kyushu-u.ac.jp/~sako/07bios/lec12.pdf 結論としては法律で決めるしかないでしょう。どんな生き物も殺してはいけないということになれば、薬を服用することもできなくなりますし、寄生虫を取り除くことも出来なくなります。法律に賛成するもの、反対する者が出てきますが、国家という枠組みで管理されている以上、仕方ありません。(なるべく多くの人が賛同できるための民主主義でもあります。) 更に、人間を含めた動物は免疫を持っていますから、日々夥しい数の生き物を体内で殺しています。逆に無尽蔵に殺すわけにも行きません。感情論以前に過去にそれを行って、生態系が崩れたり、危険なウィルスも発生しています。 法律とはいっても国によって異なります。日本では鯨やタコ、海老など食しますが、国が変われば犬やネコ、昆虫も食します。文化破壊や食糧難にも繋がりますから、国際法で一律禁止にするわけにも行きません。土壌が痩せている地の遊牧民の方々は、動物を食べるのを禁止されれば、生活できなくなります。今、豪州の某団体が自国の法律を他国や自国の主権の及ばない範囲に無理矢理適用させようとしています。これは、外国に対する主権の侵害ですので、日本政府には毅然とした態度をとって貰いたいものです。
お礼
回答ありがとうございます。 人間以外も他の動物や植物を摂取して生きています。 しかし、このニュースのようにそうではない場合はどうなのか? 動物愛護という考え方はよいことですが、「食」ということまで考えると行き過ぎもあるのではないかと思います。 なんだか、お礼文も支離滅裂になってきました。
- hossannpap
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お答えの積もりで書いているのではないんです。私個人の心の中では、ANo.2 3691819様と同じ様な価値観での基準が、存在していると思っております。 さて、私が、投稿してみようと思ったのは、鯨の問題です。 私の子供の頃は、我が家でも、学校給食でも、当たり前の食材として、食していました。 捕鯨規制後、今日まで何年経過したか正確な年月は、覚えておりません。その間に、日本人の意識は、昔と変わってはいないのだろうか??よく解らないのです。 日本の調査捕鯨に対しての、非合法で狂気的阻止行動を見ては、自分達の価値観以外、全く認めない事への苛立ちを覚えます(マスコミや政府見解と同様に・・)。しかし、その一方で、TV番組などで、ネーチャー番組とでも言いますか、スキューバダイビングにての鯨やイルカとの交流の様な番組を見ると、食物の意識は無くやすらぎと共に微笑をもって見ています。 他の家畜(食料にしている動物)に対して、同じ様な思いになるのでしょうか?馬に対しては、特に競走馬に対しては、人格ならぬ馬格を認める人は、けっこう居ますが、馬刺しになる馬には如何でしょう。 馬もですが、牛の目は優いと言います、しかし、一般人の意識は、そこまでで刹那的な感情です。次の瞬間には、高級牛肉が浮ばないでしょうか?豚に対しては?山羊に対しては?羊に対しては?鶏に対しては? 人(日本人)は、食料としての意識と地球号の共存者としての意識とを、どの様な境界で意識処理しているのでしょう? 日本人の中にも、ホエールウォッチングに出掛けたり、鯨と共に遊ぶ様なツアーなどに参加する人が、珍しくなくなってきた昨今の事にて、食料としての扱いが、虐待と思う日本人はどの程度いるのだろうと思った次第です。 私自身は、時々で、確固としたスタンスでは位置付けられなくなりつつあります。 この問題は、回答者の欄に書くより独立した質問者として書く方が良いのかも知れませんが、質問者様の問い掛けと先輩方のお答えを拝見して、ここで投げ掛けてみたかったのです。何故なら、国際問題や政治問題・食料問題などは考慮に入れず、虐待の疑問に特化して思ったからなのです。 事をややこしくして申し訳ありません。補足要求の様なそうでないような奇妙な書き込みになってしまいました。
お礼
回答ありがとうございます。 難しいお話ですが、どんな生物も「生きる」ために他の「命」を奪います。 私は「生きる」ための殺戮はいたし方がないのではないかと思います。 私もおっしゃっていることを理解し切れていないのかもしれませんが、ぜひ、この件についてはほかの方の意見もお聞きしたいところです。
- 3691819
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こんにちは。 これにはもちろん境界線などありません。その人その人が今まで生きてきた 上で身についた価値観というものが有りますので、この問題を議論する事 もとどのつまりナンセンスなのかもしれません。 ただしある程度は認知されている常識みたいな物はあるようなので、 その範囲内であれば異常者扱いはされないで生活していけるとは思います。 さてここからは自分が動物保護団体の会員になってから思うようになった 事ですが、まずはペットショップで売られている子犬子猫(人間でいえば 3歳くらいでしょうか)、これらを見ているとどの子達も「お母さんお母さ ん」って泣き叫んでいるように見えて、これなんかかなり酷い動物虐待 だと思います。 次に動物園。ここの野生動物たちは今は昔より環境が良くなったとは言え 、しょせんは檻の中であり人間でいえば奴隷か囚人みたいなものです。 百獣の王ライオンなんか動物園じゃ客寄せパンダでしかありません。従って 動物園の動物達も虐待されていると私は思ってしまうのです。 こんな考えを持たれる人は極少数かもしれませんが、自分は自分なりの 価値観を持ってしまった以上、こういう考えは変えられないのです・・・
お礼
回答ありがとうございます。 第三者が見ての虐待と当事者(動物)が受ける気持ちにずれがあるかもしれないというのは考えていました。 ひとつの例が、犬が着ている服、これは飼い主の自己満足でしかないような気がします。
- ogura173
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私も恥ずかしながら子供のころは蟻を遊び道具の一種として扱っていた口です。 私は動物虐待の境界線は犬や猫、鳥、兎などの生物としては比較的大型でペットとしても人気が高いものが動物虐待の対象内だと思います。 しかし言われてみると不思議ですねぇ蚊やハエ、ゴキブリを殺しても全く心が痛まないのに上記の動物が虐待を受けると怒りを覚えるこの心情が。
お礼
早速の回答ありがとうございました。 本当に難しい問題だと思います。
お礼
>だから人間も子供の頃にそういうことをした人のほうが命の重さを知るそうです。 >さすがに大人になってもやっていたら危ないですが・・・ 私が今回この質問において「わからなくなった」と書いた気持ちの根本がこれです。 最近は小学校の理科の時間に蛙やフナの解剖をしなくなりましたね。 乱暴な意見ですが、そういうことで反対に「命の尊さ」を知る機会がなくなってきているのではないかと思います。 私はフナの解剖をしましたが、小さな心臓がぴくぴく動いていたのをいまだに覚えています。 そういう経験がいいことなのか悪いことなのか、答えがすぐには出せませんが。 命というものを知るひとつの手段であったことは確かだと、「私は」思います。 回答ありがとうございました。